こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

kiss and cry and cry

15歳の頃を思い返すと...私の場合、もう残りの人生あと半分だ、と思っていた。「いつの間にかここに来てしまったなぁ」「小学校も中学校も、“それなり”にやってこれたけれど、特筆すべき“私”はないなぁ」学校へ行っても行かなくても、私の体調はあまり変わらなかったし、心情の変化も自分ではわからなかった。“そうしたくない”ことには頑固だったが、“そうしたい”こともあまりなかった。周りと比較して、自分のことを「一歩先んじている」と思えば「いやいやいやいや」とノリツッコミが出るし、「みんなと同じくらいだ」と言われれば現状が違いすぎてハテナしか出ない。「ぼんやりしている間に出遅れてる」と思えば納得はするが、「だからどうした」と。それが判明したところで、どうしようもない。

少し焦ってはいたかもしれない。15歳期間に限らず、“何を”という目標も目的もないまま、16の間に、17の間に、18の間に...と、年々何者でもない自分に苛立ち、そして諦め続けてきた感じだ。今も似たような気持ちや思考回路があるとすると、人間あんまり成長してないようにも思えるが、あの頃の私はやっぱりあの頃だけの姿で、握ってる残り時間も、言い訳も、本質も、今とは別物なんだろうなぁ。

今日テレビで、15歳の少女が号泣する姿を見て、心が痛すぎた。本当に、まだ子供で、華奢な少女で、本能的な闘争心と人間らしい繊細さで、硝子が鋭く脆く崩れていくような姿に、いたたまれない気持ちでいっぱいになった。どのような姿が真の“自立”といえるのか、それは人によって様々だと思う。お金を稼いだらとか独りで世間を渡れたらとか、“一丁前”の概念はそれぞれ違う。彼女自身が自分を一人前の大人だと思っているならそれはそれでいいと思う。それによって一人の人間としての尊厳も守られるならなおさらだ。この私でさえ「もう15年も生きているのよ」と思っていた。「1年1年が貴重だというなら、15年もこの世にいることを許されているって“長い”。だからもう半分来た、と思う」と本気で言っていたのだから。でもそれは当時の話。だんだんとその“リミット”の意味が薄れてきて、今は「ああ、15歳ってやっぱりまだ“少女”なんだ」とこの度の映像を観て、思った。

確実な“個”、己は己だけだという“自覚”は生きる上できっと重要だ。勝負の世界では、“揺らがなさ”は強さと云えるだろうし、自分をコントロールするのも破棄するのも自分自身だ。〇歳だからとか大人だからとかじゃない、一人の人間として、演者として、責任を持っている。彼女らを見ているとそんな風に伝わってくるし、理解もできる。だからこそ、だとしても、彼女を不憫に思った。子供だから、女性だから、守るべきと言ってるんじゃない。か弱いとか頼りないと評価しているわけでもない。ただ、そこにある状況が、滲み出てくる感情が、その少女を“表現”するのに、とても“似合ってない”、そう感じた。

 

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