ものの住所と私の場所
部屋を少し模様替えした。シンプルになりたいのになかなかそうはいかない。部屋というのは私そのものを表しているようだ。散らかっているわけではないけどまとまってもいない。自身が“関わっていないもの”で溢れている気がする。服だって、本だって、何年も手に取っていないもの、見えないところにきっとある。「どうにかしたい」と年がら年中言ってるようで、気が引けるのに結果に出ない。所有欲を薄めるだけではいけない、手離す行動力が必要なのだ。
理想の部屋、を自由に描けるだろうか。私は人生で何回かは引っ越しを経験しているのに、これぞ!と思ったことは一度もない。狭くとも真っ新な自分の城を手に入れたのに、なんとも中途半端な仕上がりで、半ば生活に追われるのだ。時間があれば完成しているかというと、たぶんそうでもない。完璧主義が次々と“アラ”を見つけてくる。「ここ、己の理想とズレてるよ」と。でもそもそも理想なんてそんなになかったのでは?と考え始めると、もう二進も三進もいかない。そして時々現れる衝動だ。「あーもう全部燃やしてしまいたい」もちろん実際にやらないし望んでもいないのだけれど、一掃したくなる。考えすぎるから、要るか要らないか・嬉しいか嬉しくないか・癒しかストレスか、それに迷うこと自体がだんだん煩わしくなって、全て放り出したくなっちゃう。結局、小心者は冷静になって、また一から考え始めるし、これを延々と繰り返すなら、「素敵なお部屋で理想の暮らし」なんて架空の物語のまま、私は体験することなく死ぬと思う。
現状、時間が有り余っているとしても、昔言ってた“いつか”が今来てる感じがしない。いつかやるとかいつか要るは、時間や生活状況のせいにできない、決断する気持ちの問題だった。私の苦手分野のオンパレードだ。決断するのも、計画するのも、計画通り実行するのも、そもそも思いつかなければ、“いつかの当日”はやってこない。今の部屋は、私の終の住処にはならないかもしれないけれど、それでも生きている間にこの目で、この頭で、「これぞ私の部屋!私の住処!」って感じたいとは思うなあ。むしろ今しかない気もしてきた。そして満足したら最期かもしれないけど、本当に満たされてたらそれも良いかもしれないねぇ。
押し込めても隠しても、私はその全てを記憶しているわけではない。それは本当に“私のもの”“私の場所”と言えるのだろうか。大事にしていると言えるのだろうか。忘れていたものを再発見する、そういう楽しみ方もあるけれど、私はなるべく把握していたい気持ちに、年々なってきたな。何故か。預かり知らぬものが、自分のテリトリーにあるのは、気になるのかもしれない。私の安心はとても規模が狭いのか。