こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

make me someone ?

思い立って、放置していた創作物を再開してみた。なんといえばいいんだろう...編み物?織物?毛糸を使ってるから夏の間はさぼっていたそれを、なんとなく取り上げてみた。普段おしゃべりな私だけれど、黙々とする作業は結構好きだ。小さい頃はビーズ、中学の時習った張り子も好きだったな。何かの網の目を延々と数えるのも苦じゃなかったし、瞬間的な単調作業が好きだった。(例えばお肉を焼いて、器に並べて、提供してっていう一連した作業のループではなくて、ただお肉を焼く、焼く、焼くっていう連続的単一行動のループ)

子供の頃から、大人になるにつれて増えていった気がする、「それして何になるの?」と言われてしまう行動。毎回答えは決まっている。「Yes.何にもならない。」と。だから逆に、(他人または世間にとって)意味があるとされている行動に対して私から、「これって何の意味があるの?」と聞き返し、返答に困らせることもしばしば。「学校をリタイアしてどうするつもりなの?」「毎日夜中までインターネットして何が実になっているの?」「記念にも稼ぎにもならないものを作って、誰にも読まれない文章を書いて、その結果あなたに何が残るの?」言われ続けて半分は麻痺、もう半分は未だにザワつくね。「そうだよ、何にも、その通り、何にもならない。」私の行動の先に、“あるべき目的”がない。親や恩師が望む“見てほしい目標”がない。「とすると、私が“何にもならない”“無意味な”“非生産的な”行動をやめて、おすすめされている行動をすると“何かになる”の?」「何か価値を付与しないと、意味のある、成果のある行動をしないと...ってこと?そもそも何の意味もない私なのに...」努力して結果が伴う人はもちろん素晴らしい。結果を出せない人もがんばってて偉い。人体なんて食べたもので作られていて、食べるということに確実な意味がある。“何かになる”明快な行動だ。何の“形”も生み出さない行動は、目的が曖昧になればなるほど他人には理解されないし、私の場合、癖ですぐ突き詰めて「どうせ私の命含めやってることなんて何にもならない、意味のないことだわ」なんて極論吐いてはシャットダウンする。

他人の存在を意識した行動は大事だ。私にもそういう部分はちゃんと(?)ある。評価されたい、認められたい、自分の行動ひいては自分自身が意味のある(価値のある)存在だと言ってほしい。引き出される感情や世の中のシステム、それが報われる形もさまざまで、給料だったり感謝の言葉だったり、他人を通して己を見定めている。でもその前に、行動原理として“ただ自分がそうしたかったから”というのがあるんだ。それがなんでなのか、自分でも正直よくわからない。食べたい、という感情さえ、選ぶ素材は本能的に欲している栄養素が関係している、なんて話もあるくらいなのに、金儲けでも承認欲求でもない、まして空腹も満たされない、「ただそれをやりたかったからやる」という行動が、あるのだ。みんなにあるのかは知らない。少なくとも私にはある。

制作も過睡眠も、相変わらず何にもならないことだけれど、だからこそ締め切りとかプレッシャーに追われることなく、気が向いたときにやり、気が向かなければ辞められる。できるのはありがたいことだねぇ。意味なんかない私が生きている限り、電気は使うし二酸化炭素は出すし、それらに関しては申し訳ないねぇ。

 

余談。こちらの↓「ビーズ」の検索結果、私の一瞬の癒しになりました。うまく言えないけどなんかこういうの好き。色が整然と並んでいる様子...。

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