道理で、ね
お金もない。夢もない。ならばまずやらなければならないことは、当面生きていくために、食い繋ぐために、お金を稼ぐ、稼がねばならぬ。というのは至極真っ当な話で、この状況じゃなくても、夢見がちで脳内お花畑でも、“正しさ”として勧奨されるのだろう。自分でも理解はしていると思っている。それなのに、行動として表れないのはどういうわけだろう。他人事みたいに言っているが、本当に自分でも何故と思っている。
やりたいことがあるならやりなさい、やりたいことがないならやるべきことをまずはやりなさい、というのがうちの親族でわりと常識的だと思う。そうまで言われて私が動かないのは、怠惰に重ねて甘えんぼう、ということだろうか。皆のいう“やるべき”に私が同調しきれていないということもあるかもしれない。「はーい」と理屈はわかっている返事をして、「やるべきってなんだろう。自分も含め誰も責任とれないのに?」と考えるのは、可愛げでも慎重さでもない。ただただ意欲が行方不明なんだ。
お金とか人生とか欲望とか自由とかに対して、どういう存在だと捉えているか、だ。「生きていくために」が前提で話が進んでいくと、私はすっかり取り残される。違和感を持った時点で、始めから不参加だったような気分だ。聞ける理屈は大体わかっていて、あらゆる価値観は受け入れられますというアテンションも素直に受け取っている。たとえ反故にされてもそれはそれで...と怒ったりしない。お金とか自由が生きていくための道具や手段だとすれば、それを用いない選択も確かにあって、始めに共通認識だと思っていたものは崩れ去る。結構昔から実は繰り返してきた流れかもしれない。「意味はわかる、人なら当然というんですね、なら私は人ではないと...?」意味不明な理屈をこねる奴だと面倒がられて壁が出来ていったのかしらね。
私自身にも先入観はたくさん染み付いているのに、他人には私に向けて勝手に思い込まれたくないと思っている。“さも当然”と押し付けられることを怖がっている。実際、考え方まで強制されているわけではないが、皆が思わないことを思えば、尊ばれるか忌まれるか紙一重だ。日常に極端なことは起きない、しかし大概なんとなくめんどくさーって思われてるんだろうな。言い訳ばかりで、物事を複雑にしたがる奴、とか。「そう見られているのかも」も立派な先入観というか思い込みだと思うけど、事実を突きつけられたこともあるから、あながち全部が勘違いというわけではないだろう。
ただの違和感のみで、自分の怠惰を助長しているとしても、そういうやり過ごし方しかしらない。「わかってるんならやりなさいよ」も、わかっている事実と行動が直で繋がるなんて疑問である。スイッチひとつで動けるわけじゃないから、時間稼ぎのように思いつきを並べている。