こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

きえないかぞく

冷たい人間だと言われても、家族の問題で悩まされるのはもう本当うんざりする。お金も命も生き様も、全部自分の責任でやってよって思っちゃう。それでも情が全く無いわけじゃなくて。だから本当に本当に面倒だし、定期的に逃亡したくなる。「面倒」の一言であらゆるものをバッサバッサ斬っていけたら、楽なのに。ややこしい人間はいつまでもややこしいし、変な奴は見方を変えても変な奴。慈しめないものが自分のテリトリーにあることがストレス。全てが円満に解決することなど、一生あり得ないんだろうなーと思うと、その一生をこれから先やっていく自信がないわ。“問題”は私自身にもあるのだけれど、ならなおのこと、是正も解決も“面倒”で、不快な時間を一日でも早く減らしたい。つまり、この人生から逃亡したいって思ってしまう。

家族を溺愛する人は褒められるのに、家族を愛せない人は疎まれるでしょう。そういう時に限って、人は平等を謳うでしょう。意味わからないよね。「薄情だ」と諭す相手をさほど大事にも思っていない、私自身の方が薄情だ。こっちに傷つける意図はないのだから、そっちも傷つけたり暴れたりせずに、静かに離れていってくれと思っている。愛されたいとも愛したいとも思わない。居て邪魔だとも、居なくて寂しいとも、思わない。私は作用しないところで、勝手に生まれて勝手に死ぬから、誰も彼も、他に害為す必要がない世界で、勝手に生きてくださいって、懇願したいくらい思っている。ずっと側に居たいとか、優しく見守りたいとか、大事に育てたいとか、仲良く付き合いたいとか、思わないのおかしい?沸き起こるべき感情なら、沸き起こらない私は欠陥品なのだろう。

「家族だから」という言葉を、繋がりと捉えるか干渉と捉えるかで価値観が違う。繋がりには細い太いがあるし、干渉にも過不足がある。多くの偶然を誇ったとしても、個人の感情を操作することはできない。文化や宗教や培った感覚で、絶対的だと云う人も多いかもしれないが、慈しみや情や愛なんてものは、“その”言葉の元に絶対的ではないと、私は思っている。

将来設計を聞かれるのが今一番苦痛なの。「ないよ!んなもん」て本気で言ってる。人は私を大人だと思って“さもありなん”で話すでしょう。予見できているか、心配ごとはあるか、家族像、お金や仕事、健康、その上での生きがいや好みでどう“豊かに”生きるか。全部架空のことみたい。実感がない。先なんにも見えないし、無理して想像してもネガティブな映像ばかり。10年前はここまで生きてくつもりじゃなかったから、今から10年後なんてもっと思い浮かばないし。70年後も1年後も、不明なのはどっちも同じ。

自分のことも不明瞭なのに、人の行先を案じる余裕なんてないの。「自分が不幸になったらどうする」と問われても、正直どうもしないよ...。それでも、もしトラブルがあれば無視できない関係性だと、思わされるから本気で面倒になってくる。私も決して偉そうに言えたものじゃないけど。人を攻撃することで甘えているなら、静かに侵食することで甘えている方がまだマシ、と考えてしまう。甘えん坊なりの苦肉の策を謀って勝負に出ろ、とぶつける気力もないから上目遣いで睨んでいる。

 

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