こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

はっきりしないことがはっきりわかった

前三回の投稿、一度感情のまま一気に書き上げて、その後何度も構成し直した結果だ。先立って言いたかったのは心境の変化だったのだが、文字にすることで見えてきたものもあり、当初予想していた出来上がりとは違う形となった。何しろ長い。そしてまだるっこしい。でもまさにこれが脳内で右往左往している私の“普段”なのだと、ある意味“ありのまま”示せたようにも思う。

蛇足かもしれないが多少の追加思考。こうして考えていると、性被害もいじめも(後に書く動物飼育の問題も)、被害者側に“努力”を求める構図が見える。新年早々Twitterで話題になっていた痴漢問題だってそうだ。「入試の時期に受験生を狙う痴漢が増える→受験生の皆さん、気を付けましょう」?本当に?もちろん親心的に少年少女たちに警戒心を持ってほしいと願うのは当然だけれど、でもどうして“未然に防ぐ努力”をするのが結果的な“受け手”側なのか。理不尽だ。「犯罪に遭いたくなくば、油断するな」という防犯意識は重要だと思う。どんなに世界が優しく見えても、どんなにこれまで素敵な出会いしか経験していなくても、世の中には、本当にいろんな、いろんな人間がいるのだ。「全人類を100%信用することはできない」それはわかっている。しかしだからといって、その警戒のための努力が、何らかの犠牲が、本人の自由を奪っていないか、齎されて当然の不自由なのか、全ては“仕方ない”のか、私はまだ受け入れきれない。「ミニスカートを履くな」「うなじを見せるな」「体のラインを強調した服を着るな」「危ない目に遭いたくないなら自由に出歩くな」「馬鹿にされたくなければオドオドモジモジするな」“防犯”の肩書をもって、“努力義務”が次々促され、どんどん窮屈になるのは被害側の方だ。誘拐も虐待も、犯罪は犯す側の悪なのに。追い込まれるべきは加害側なのに。今の社会では自衛はやめられない。でも防御や砦があるからといって、人は人を簡単には変えられないからといって、加害側を野放しにするのは違うと思う。自衛を含めた“他衛”、他者を守ること、「加害をさせない」「誰も加害者になってほしくない」そのことをもう一度考える。

 

さて。何も明言できない私の文章を読んで、なんともはっきりしない奴だ、と思われるだろうか。しかたがない。過去のどれをとっても曖昧と矛盾が溢れているし、無理に何かを導き出したところで、それはもはや自分ではない、そういう気持ち。

社会的に“立場”をはっきりさせていると動きやすそうだ。もちろん伴う責任は大きくなるが、堂々としていること、軸がぶれないこと、明確な主張を持っていることは、どれも“美しく”思える。私は足元がぐらぐらだから、“美学”に頼り、寄っ掛かっては吞まれやすい。矛盾や曖昧を許してもらえる空気は居心地がよいから、結論を急がないし二択から選べないし、何かを良いとも悪いとも、言うのが難しい。今までも、そしてこれからも、私が書いているのはどれも迷いの過程だ。

 

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