こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

Age is

年齢をものすごく気にしている私と全くもってどうでもいいと思っている私が、この頭(うつわ)には同居している。外見においても、外見はひとまず置いといてという共通認識においても。人からどう思われるかということと自意識の中で済んでいること、そのそれぞれに、また二面性が生まれる。

例えばでいうと、「もうええ歳やのに」と言われて、「そうやなぁ」と愛想笑いする私と「だから何?どうでもええわ」と感情の欠片も見せない私。「その年齢でその格好はナイわ」、「年相応って言葉知ってるやろ」と言われて(もしくは自分で思って)、「自分でもお目汚し恥ずかしい」「ちゃんとした“大人”に見えるようにね」と“自由にしている”態度の私と、「別に好きな格好でええやん」「TPOは考えるけど年相応にわきまえろって一体どういうこと?」と横暴にならない程度に食ってかかる私。

いつものように、どっちの言い分もわかるんだよ。どっちの側にも共感と反感がある。自分の頭の中で緩い戦いが起こっていて、本来は人の意見なんて実は聞いていない。どちらかに、振り切ってしまえば、勝手に決めてしまえば、その瞬間に“解決”するのに。いつまでも行ったり来たりしている。別に迷い続けることは悪いことじゃない。でもその間にも時間は経つし、最期に近づく。私の“うつわ”はひとつしかないから、生き方を、今この瞬間の頭の中の色を、何バージョンも試すことはできない。

ひとりでやっている分にはいい。社会の中にいる自分として考えると、矛盾を抱えて右往左往している私が途端に慌て出す。「そんなの中途半端でもいいよ~気にしぃな自分も気にしない自分もどっちも自分じゃん」との言葉に通常は甘えているけれど、しかし矛盾を“平然と”“悪びれず”抱えていると、あんまり信用してもらえないという社会の一面も知っている。

幼い頃にさして戻りたいとも思わないし、早く歳を取りたいとも思わない。事実として必要だったことは間違いないけれど、過ぎし日々が全て大切かというと、まだあまり実感はない。数年後が、時を重ねた自分が、楽しみかというとそれもあんまり...わくわく考えることはないかな。だから「年齢は枷ではなく翼」とは今は思えないでいる。怖さと期待がないまぜだったり両立だったり、そこに無関心も潜んでいたりして、年齢とは、それに対する私の感情はなんなのか、答えはないままである。ものさしなのか、記号なのか、ただのネーミングなのか、それさえもあやふやなものに、矛盾を育てよと託されている。

 

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