こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

だれかのそばにいるということ

世の中には、大切であるはずのパートナーをぞんざいに扱うク〇みたいな人間がいて、そういうエッセイを見つけると読み込んでしまったり、いくつか浮かぶ自分の過去を不本意にも思い出したりする。登場人物の喜怒哀楽に同調する気持ちと、現状は他のどんな状況より恵まれているという思いに、納得しつつも晴れない気持ちでいる。

年齢とか環境とか予想とか関係なく、今の自分の気持ちに素直に。それが正論だと思っていても、私にはいまいちはっきり見えない。関係なく、と言われても、でも後々絡んでくるよね?この年齢で、この姿で、この環境で、この思考で、今生きているのだから、何もかも無視して選び取ることはできない。結局、あらゆることを加味した上での“素直な気持ち”だから。

自我が強い時期は、相手に主導権を握られるのが嫌だった。関係の始まりも、話し合いの進行も、全ての終わり方も、自分の指揮のもと動いていくのが理想だった。そのわがままに付き合える人しか周りにいなかったし、付き合えない人は離れていった。嬉しいとか悲しいとかではなく、それが自然だと思っていた。極端なので、自我がほぼないくらいの時期もある。全てが言われた通り。口ではYesマンなんてダサいって言っていながら、こっち来てと言われたら行き、そこで待てと言われたらいつまでも待つ、あっち行けと言われたら離れる、空気読むのに必死だった。それでもまだまだだなぁと思っていた。私がふにゃふにゃした性格だから、指示が貰えてありがたい、むしろ言われたままにするだけで相手がお礼を言ってくれる、なんて楽してるんだろう私は、申し訳ない...これは一生満足することはないぞ、と当時の自分だって薄ら思っていただろう。

アップダウン右往左往しながら、やっとニュートラルになれそうな最近だったが、ここにきてまた両極端が顔を出しそうな気がしている。塩対応・わがまま放題な自分と、溺愛依存体質の自分、どっちも経験しているから、どっちが“本当の自分”かというともう全くわからない。理想はもちろん適度・ニュートラルな自分だけれども、まぁ理想は理想だしね、と放棄する自分もいるのだ。衝動で行動したくないな...と思っているけど、暴発的に覚醒する衝動を自分は抱えていると知っている。散々悩み抜いたとしても、後悔の欠片は払いきれないことを経験上わかっている。相手を傷つけたくないとか言っておいて、相手の傷を見たくない自分のためじゃないか、と自分の声が聞こえる。

ありがたい状況をありがたがれない。小さくとも確実にある(たぶん)幸せで満足できない。そんなに自分は卑しいかしら?幸福の反動とか、トラウマからの脱却とか、蛙化現象とか、いろいろ当てはめてみるけれど、私の記憶にある最も幸せな日々は、今ではない。申し訳なさと共に、素直に、思ってしまった。

 

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