こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

続・だれかのそばにいるということ

今の恋人のことは間違いなく“理解者”だと言えるだろう。“一番”とも言えるが、それは現在進行形だからだ。私が今まで出会って“理解者”だと感じた相手が何人かいて、比べているようにも思う。関わった全ての人間が対象ではない。“恋”を感じても“理解者”とは感じない場合もあったからだ。そこからもわかるように、“理解者であるか”“信頼度”“愛情の深度”はどれも比例して共存するものではない、少なくとも私の中では。そもそも競うものではないが、今の相手に優る“何か”を持っている“過去の人”もいるのだろう。それは私自身にも言える。私がどうやっても手に入れられないものを持つ人間をパートナーとしていた過去は、これまでの恋人が皆持っているだろう。それでも今は“今の相手”を選んでいる。“違い”を感じても“否定”にはならない。

失礼を承知で“正直”を述べる。理解者がいることがありがたい。人を嫌わずに、避けたりもせずに、好きだと思えることは、恵まれている。好かれることは、自分の“実力”ではないからたまたまで、ラッキーに...やっぱり恵まれているのだ。だからそれに感謝せねばならないし、できれば存分に謳歌したい。しなければならない、とも思う。そこまでの奇跡なら。けれども私は自分の中で鳴る不協和音を無視できない。どうしてか。「どうしたものか」と考えるのは一体何に対して?何を・どのように・どうやって、はっきり思いつかない。

高飛車に取れるかもしれない。卑下しすぎに聞こえるかもしれない。どうとでも取れる自己分析と考えごとを、解決の日の目を見ることなく繰り返している。「これまでの経験上、私と付き合う人、付き合いたいと思う人はロクなもんじゃない」と思い至る。相手を悪者にすれば気が晴れることもある。自分の反省はひとまず置いておいて。友達に「幸せになりたいのに不幸にしてくる人をわざわざ選んでくる感じ」「自覚なきダメンズメーカーなの?」と言われ苦笑いで頷く。指摘は糧にもならないが、励ましたり、守ろうとしてくれているのだろう。私が付き合うことで相手をダメにしているのか、最初からダメな奴が寄ってくるのかはわからない。でも、私に人を見る目がないということが数を重ねるごとに明らかになって、“好きになる人”は必ずしも“自分に合う人”ではないことがわかってきた。逆に、“自分と合う人”とだからと言って、必ず恋人関係になるわけではないということも。

過去の“真っ只中”、現在進行形の“今”に対しても思っていることは、一見矛盾しているようで、実は上述と繋がっている。「私みたいな人間を好きになる・付き合うなんて、頭が下がる思いだし申し訳なさしか無い」だってそうでしょう。こんなに見る目がなくて、変な奴に出会って不幸ぶって、そういう風な結果しか招くことのできないやり方でしか“付き合う”ができなくて、私は自分の“パートナー力”のなさが嫌になる。相手がどんなにまともであることが事実でも、私の過去のトラブルを知る人から、“過去の変な奴ら”と同列に見られてしまいがち。「私がダメンズメーカー」が事実かもしれないし、“見る目のない私”に選ばれていること、そういう人間をパートナーとすることは、人生の汚点にならないか?何かしらの損をさせていないか?考えると溢れる、憂鬱だ。

自信の無さが、全ての思考に起因しているのは事実。悪態ついて、全ての過去に「ロクな奴ぁいねぇな」と吐き捨てても、そんな恋愛しかできない自分も「ロクなもんじゃねぇ」。だから自分に正直に、素直に生きようと思うほど、心地よさや快楽を求めるほど、それに巻き込まれるまだまともな“相手”に、申し訳ない・かわいそうと感じてしまうんだ。

 

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