こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

続続・だれかのそばにいるということ

相手が“いい人”だと、離れたいと思う。相手が“よくない人”だと、離れたくないと思った。無害だからこそ一緒にいられると思うのに、皆に応援される関係はあっさり終わらせてきた。苦しむことが多くて、考え直すことを勧められる関係ほど、ズルズルと長引いて後味が悪い。天邪鬼で済ませれば、私は私のこと、深く追及しなくてよくなるのかな。

過去の関係に“たられば”は必要ないと、自発的に言ってるつもりだけれど、ひとつだけ、もしかしたら今が変わっているかもしれないと思い浮かべる関係がある。「あの時相手がああしていれば」「あの時私がこうしていれば」他の出来事同様、今更何を妄想しても、今はもう“今”が出来ちゃってるんだけど。私が離れたことを後悔しているのならば、その人は結果的に“よくない人”だった、ということだろうか。それとも、離れたい衝動に任せたあとに、私は夢から覚め、相手が変わってしまった(本性を現した)ということだろうか。長く持ち続けている“たられば”は、綺麗な思い出の下のみに考えうる出来事で、真実は他の思い出と同じく、もしかしたらなんて無い、必然的な今になるのかもしれない。

わだかまりがなくならなくても、トラブルは未解決でも、人は年を取る。過ぎた時間は取り戻せず、人生は進んでく。傷を癒したり忘れさせてくれるという時間も、パーフェクトではない。似たような幸せを味わえば、不幸せなんてすぐに上書きされると思っていたけれど...どうやらゼロは相当難しいようだ。学習能力がないなぁとも思うが、人間が違うのだから、教訓にできることなどないのだ。“同じ自分”がいないなら、参考にもならない。

自分が選ぶ側だというのは傲慢で、選ばれる側だと思えるほど自信はない。気に入っても相手が振り向かないかもってのはお互い様で、なら自分の想いは透明にして誰かに愛されるだけの方が心地よいかもしれない。それも可能性の話で、与えるでも満ちるでもない自分を抱えて彷徨うのが最終的、になる予感もある。長く自己分析みたいなことをしてきて、時々“決定的に欠けているもの”にぶち当たる。例えば覚悟。一貫性。人がいないと生きられないと思っているから、独りを怖がっているのに、“誰かの為に”は誘発されないと出てこない。

理由はまだわからないけど、“誰かと自分”という関係において、“わかりやすさ”を回避する傾向がある。“わかりやすい理由”“わかりやすい愛情表現”“わかりやすい肩書き”“わかりやすい関係性”うまく説明できないけど、きっと不得手なのだ。例えばどうしても苦手な舌触りの食べ物...そんな感じ。味がおいしいとか、いいところがわかっていても、拒否する衝動は突発的だ。どうせいつか全て失うのだから、シンプルにあっさりと、という考えもわかる。理想像のようにも聞こえる。それでも、わかりやすくない、雑多な物事に、ひとまずの明日を貰っている。

 

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