こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

イイフウフ

“いいふうふ”の日だそうだ。知り合いの結婚記念日でもある。私はその形に対して、あんまり憧れを抱いたことはないのだが、自分自身は“そういう人たち”の元に生まれた、とは思っている。父と母が喧嘩しているところを、私は見たことがない。(実際は、怒りの感情を含んだ話し合いをしていたのだろうし、私の過去の記憶があまりにも薄いので、それっぽいのを忘れているのかもしれないが。)とても真面目でお互いの話をよく聞く“いいふうふ”だと思う。

世の中には少数派の“ふうふ”の方々もいて、あまねく祝福されてほしい。最近は“ともだちふうふ”という関係性もあるらしく、「それっていいな」って思った。法律上の定義はもちろん必要だと思う。しかし、カテゴライズで線引く位置が少しずつ変わっていくことを願う。他者に迷惑をかけないことなら、人間がよりよく生きたいがための望みを、叶えたっていいじゃない。「“いいふうふ”になりたい・ずっとそうありたい」と望む人たちが、ささやかで壮大な夢を叶えられたらいいな。

近年の私は、愛情も感情も以前と比べると薄くなり、ちょっと心配なくらいなんだけど、今のところのはっと素敵だなぁと感じたのは、さっき挙げてたともだちふうふ。性的なことはしなくて、でもすっごく仲良しで、“共に生きる相手”という意味でのともだちふうふ。もちろん、一人だけと結婚するわけだから、好きな人であることは当然だけど、その好きの種類をあまり考え込みたくない。一緒にいて楽しいとか、信頼度といえるかもしれない。私の場合は“理解者であること”が重要だと思う。自身の体から子孫を残すことに積極的でないのは昔からで、生物としてどうなのと思う頃もあったけれど、心の中にないのに“本能”とか言って誤魔化すくらいだったら、「私はそういう生物なのだ」と割り切った方が今はいいな、という考えになった。思想はとても流動的で、1週間後にはまた気が変わってるかもしれない。今更って時に後悔したって遅いよ、と言われることもあるけれど、まぁその時はその時で、未来の自分が考えてくれるよ、と返している。今の私は今しか生きられないから。その後悔とやらがやってくる日まで、私が生きているかどうかもわからないしねぇ。

憧れはないと最初に書いたけれど、そうは言いつつも、婚約者として同棲した経験はある私。いいふうふ・いい家族になりたいというよりは、好きな人とずっと一緒にいたいという恋愛の延長上にある状態が理想だった。今考えるとまさしく盲目だったし、まだまだ幼稚だったな。それでも、そうやって過ごした先には“いいふうふ”を体現した自分たちがいると、無意識に信じていたのかもしれない。当時を振り返って、今ひとつだけ言うならば、ふうふも恋人も共同作業だ、責任はいつもふたりにある、当たり前だけど忘れがちだったなぁ...。その頃のあれやこれやはまた機会があれば書くことにしよう。世の中の“いいふうふ”さんたち、どうかお幸せに。

 

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