なにをはかるかきめて
虚しいな。叶えたい夢なんてないけれど、「夢を追うにはもう遅い」って言われた。前は、夢を見つけ目標にして達成しろと言ってた人も、「必然的に無理ってこともある」「夢の種類にも限りがある」と今は言う。私は昔から胸の内を明かさなかったから、今更あれこれ思うなんてずるいよね。でも応援も賛同もいらないから、ただ頷いて聞いてくれるのを待つ姿勢は、結局今も昔も変わらなかった。変われなかった。その場限りの安心を選ぶ。自業自得だ。
何歳でも、どのタイミングでも、やりたいことをやればいいという。しかし、その時にやりたいことを絶対にやれるかはわからない。例えを出すと、極論になりそうだからここは控えるけれど。“できる・やれる”という保証は当たり前にない、そればかりか、まずはやってみるというスタートラインに立つことさえないのかもしれない。それは、現実的に科学的に不可能だったり、行動に移す意志の強さだったり思いすら隠してしまう弱さだったり。可能性も選択肢も増えるというけれど、失っていくものもある。ついつい天秤にかけてしまって、怖くないほうに、平常心でいられるほうに寄ってしまう。
「どうして」と訊かれると、ただ問われているだけなのに責められてるような気分になる。自分の希望も、理由のつけられない思いつきも、自分自身が一番処理しきれていない。「“善悪”がわかっているのだったら、わざわざ悪は選ばないだろう」と、「信頼しているのだから宜しく頼むよ」と、一度うっすら持たれた違和感をそれぞれで訂正しているような感情が、周囲から伝わって緊張する。優しい人に「否定しないで」って言うとさ、「そんなつもりはないよ...」って当然返ってくる。わかってるよ、そんなつもりでないことは。けれどもそれは本心かしら。ダメという言葉を使わずに、人を是正しようとしてくる人がいる。厳しくて正しいのかもしれない。私はどうも苦手だけれど。
15の時「人生半分終わった」と思っていた。それと似たような感情を、そこから毎年今ぐらいの時期に巡らせている。カウントダウンしていたわけではない。永遠を願う瞬間もあった。それでも「もう閉じる」「もう終わる」を思い続けているのは何故だろう。延長に延長を重ねる思春期は痛々しい?でもそんな初々しいまた麗しいつもりもさらさらないの。腐敗は確かに進んでいる。なのにどうしてか、15よりもっと前、ぐらいから変わらない感情の一部が震えてる。冒頭の話だって、14歳ぐらいにすでに思っていた。それでも年相応の表面上の顔で済ませてもらっていたんだ。だから変わらないって思った。本物の思春期に比べたら、今は図太くなった気もしてたけど、前より泣くし、打たれ弱くなったなとも思う。