こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

操縦桿はどこかしら

悩み事に対して既にこちらが欲しがっている答えをくれるか、もしくは「そんなのくだらねぇ」と一蹴りくれて、「なるほどすっきり」できれば、幾分かその先の時間を有効に使えることだろう。解決に“迷っている”姿はむしろ、「悩みたくて悩んでいるように」見える。考えることが好きだ。考え続けることは大切だと思っている。けれどもそれに“囚われている”と感じるとき、俯いてばかりいるとき、人の目を見る時間がどんどん減ってくるとき、「これでいいのか」とふと思う。

もう長らく同じことを考えていて、たぶん答えはもう出ていて、あとはそれを喰らうかどうかの話で、誰かに頼って解決を図ったり、“自分探し”なんて迷宮に向かう必要はきっとない。他人の言う通りにできればそれはそれで気が楽で、“正しさ”も味わえて、きっと申し分ない。「自我を通してもロクなことにならないよ」と経験談を聞かされて、「私の自我を知っているの?」とついでに訊きたいくらい。アドバイスを受け入れもせず、かと言って我が道を行くでもない、“しない”自由を謳歌している私に、どんな言葉が開眼させてくれるのだろう。

身近な人が今どうしてるかなんて、特段知りたいとは思わないの。比べて、傷つけて、発破かけよう作戦なら見事に失敗しているし、周りのそういう謀事がないなら私が無駄に消耗するだけだ。「どうしてるだろう」という単純な疑問、ただの興味なら私も持つことあるけど、その程度なら別に知らなくてもいいと思うんだよね。“まとも”な人だと、“あなたは違う”と突き付けられているようだし、エキセントリックな人なら、「いいな、振り切れてて」と思うだろうし。近ければ近いほど、共通点があればあるほど、際立つ“違い”をネガティブに捉えがちだ。

皆が別々の“終わり”を思い描いていることに気付いている。誰かに合わせてあげる気もない。それでいいのだけれど、不安は不安だ。本当に“ギリギリ”に立っている人から見たら、私は調子に乗ってる人間なのかしら。恵まれた状態にいながら痛いだの苦しいだの叫ぶのは、やっぱりただのワガママなのかな。それならそれでうまくいなす方法を、探さなければならない。思っていることにも思われていることにも差がある。思ってもいないことにも思われていないことにも、知らないだけできっと違いはある。

ふと「助けて」と呟くときは追い込まれているとき。通常はそんな私はどこにもいない。ふと「かえりたい」と言うようになった。「でもどこへ?」という自問自答をセットにして。誰にも操作されない人生を望みながら、誰かのコマであれたならという思想も、同時に存在する。果たして、楽をしたいのか、楽しくしたいのか。

 

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