こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

名状しがたい

私は私として、頑固で一貫性があるように見える一方、絶えず変化してころころ気が変わって影響されやすく矛盾が多い、とも言える。アイデンティティがふにゃふにゃでさほど知識もない私が、多様性だのマイノリティだの人権だのと、ペラペラ語るのは愚鈍で滑稽かもしれない。しかし、罪でも間違いでも浅はかで痛々しくとも、私が“自分”を語ったり記録したりすることは、他に代えられぬ所業だとも思っている。

子供の頃から、所謂好きな人がいないことがなかった。常に“恋”していると自分では思っていた。今となっては何を“叶う・叶わない”に据えていたのかわからないけれど。付き合うということがゴールではなかった気がする。思春期に、好きな人or彼氏欲しいな~と話しているガールズたちの気持ちがわからなかった。欲しいとか考えなくても人を好きになるし、好きな人と運がよければ付き合えるってだけで、恋人という存在を手に入れたいわけじゃなかったし。好きな人に振られても、自分自身の好きって気持ちが消されるわけじゃないから、失恋ってあんまり思ったことなかった。自分が振るときの理由は、相手を嫌いになったからではなく関係性を変えたくなったから、とかである。

大人になって、それなりに山あり谷あり恋愛をしてきた(と思っている)けれど、最近新しい言葉や価値観に出会うようになって、過去の、そして現在の自分を少し疑い始めている。私は本当に、恋をしていたのだろうか。人を好きになってきたのだろうか。これまで私のことを好きだと言ってくれた人の想いを、それに応えてきたつもりの経験値を、ぶち壊すようなこと言っているかもしれないけれど。現状の、他人にさほど興味もない、みんな素晴らしいしみんなどうでもいいみたいな価値観の、コミュニケーション怠惰な私を考えれば、大層疑わしくないだろうか。無論、絶えず変化してきて今があるのは確かなのだが、それにしても根本が怠惰であるのに、恋にそこまで情熱を注げるのだろうか、自分。真実でも自己暗示でも、「その時はこうだった」で済ませられるくらいの話ではあるけれども。

とてもとても好きで忘れられない人について、それは恋ではなく依存なのではと、もう何度も何度も考えてきている。その前後、どれにも恋愛関係だとラベリングしたけれど、本当は好きになっていないのでは、だとしたら相手に失礼だったな、とたらればが渦巻いている。「君が好き。君が恋人であるか否かはどちらでもよい。」とは一見純粋な心のようで、相手の気持ちをないがしろにするつもりなのか、好きという感情への勘違いなのか、残酷な言い草、ともとれる。“好き”は確かに“好意的”ではあるけれども、それが果たして恋愛上といえるのか、両想いになったり通じ合って恋人と括られるようになるのが望みなのか、今更だがよくわからなくなった。過去はいい思い出として、相手または周囲の思いたいように残るので良いし、私も当時はそれで十分それで完結としてきた。ここにきて、“そうでないかも”を掘り返しても、誰も何の意味もないことはわかっている。しかしやっぱり私の思考はちょうど良いを学ばない。次に続こうと思う。

 

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