乗り遅れ
ここまで生きてこられたのは、もちろん周りの支えあってのことだけれど、時々「あ~失敗だったかなぁ」と思う。自分が続いて、今ここにあることを、素直に喜べはしない。“普通”や“望まれている”レールを外れても、「まだ大丈夫」「まだ間に合う」と言い聞かせるように、口には出さぬまま思い続けていたけれど、考えていたリミットに達する前から、既に「もう無理なんだろうな」と気付き始めていた。「間に合っている」なんて「今からでも遅くない」なんて、幻想なんだ、と。飛ぶタイミングを図っているうちに、飛ぶこと自体を忘れてしまった。
年齢や性別や環境や運を超越して、強く望む夢など、持っていなかった。そこが空欄のままでも、まだ時間はある、モラトリアム期間もある、と処々言い訳じみた自己暗示を繰り返していた。そうして“間に合わなかった”ものたちが少しずつ姿を現し始め、そうなってやっと、興味を持ち始めるが時すでに遅し。機会を逃して期限を過ぎたものたちに囲まれて悲嘆するくらいなら、やはり当初の思いつき通り、リミット通り、終了した方が良かったかな~なんてね。夢とやらが多少あったのならまだしも、何も定められないまま、延長なんてするもんじゃないね、と時々思ったりするのであった。
「量より質なんだね」と指摘されることもあるが、それはモノに寄るのではないかな。なるべく早く濃密に、と考えることもあるけど、無駄に思える長時間も実は無駄じゃないってことはあり得ると思っている。一瞬に全力を尽くす美しさを素晴らしいと思うけれど、食事は究極腹が膨れればいいか、と思っているところもあるし。今までの人生で、自分の長生きを望んだことは本当に一度も無いけれど、凝縮した短命は望んで叶うものじゃないと知っているから、未成熟を継続するのも致し方なしってところかしら。
「親はそれを望んでないよ」とか「否応がなしに消える命もあるのだから」とかって、自分は無関係なのに他人の存在や価値観を利用して説得しようとしてくる人とは、仲良くなれる気がしないな。情や立場を盾にぐいぐい踏み込んでくる人は、過干渉だなと思う。一旦我を顧みて、理解できないなら「自分とは違うし、どうでもいい」とどうしてしてくれないのだろう。「わからんからその考えやめろ!」と攻撃してくるのは論外だけど、柔らかい態度で「その考えは正しくないし、改めていこう?」みたいな“修正”を試みようとしてくるのは実に厄介だ。私と新たな関係を構築するか、自分の言葉だけで問いかけてみようと思わない限り、私の聞く耳は開かない。ぱたむ。
今辞めるのに惜しい状況がいつか来るのだろうか。きっと、「惜しかった~」とも「まぁしょーがないねぇ」とも思ったかどうか知る由もないんだけれども。私の今世で済まさなければならない用事がまだあるのか、それが何なのか、わからないからこそニュートラルで居られる。生き急いでいるわけでも、踏ん張っているわけでもない。それが例え“良くない”としても、わからないものがわからないものに説くことはできない。判断基準は心地いいかよくないか、それぐらいだ。