過去をユル・ユル
自分のご機嫌取りはセルフで当然、らしいけど、難しい。だからといって、誰かにお願いするつもりもないけれど、不愉快さやなんとなくの違和感や不快感を、ひとりで一掃することができない。基本は飽きっぽいんだけれど、全く笑えない時間を結構長く引き摺っていたりする。誰かに訴えたってそれは消えないし、ただ疲れるだけなんだけど、自分のために手を叩いても、なかなか解放できない。
過去に囚われたくないけど無理だ。追いかけられて逃げられないのではなく、自ら同じ場所に留まっている気がして、ただのわがままにも思える。私がモンモンとしている間、他の人は楽しい時間を重ねてるよって言われて。それはそれで喜ばしいことなんだけれど、だったらそうである証明を、幸せである事実をちゃんと見せて、“この物語”を終結させてほしい。「“はじまり”から繋がって今に至るこの関係の“おわり”」を早く感じさせて欲しい。ショッキングな出来事で忘れられない過去も、一区切りを重ねていけば、少しずつでも重荷は軽くなるだろう。しかし圧倒的な裏切りも、不可抗な喪失もないままの放置には、いつまでたっても区切りが来ない。忘れることも捨て去ることも、できない。
「許してしまって全てを忘れよう」という人がいる。憎らしいところも、歪んでしまった感情も、己の執着心も、全てを許して心を楽にしようと。辛い過去を何度も思い返したって起こったことは変わらない。ならば、そのリプレイを捨て、恨みを捨て、なんとかしたいと思うような無駄に疲れることは止めて、忘れる。砂を払うように、そしたら前を向いて歩き出せると。うん。それが解放される術だって私は知っている。その通りできたらどんなに楽だろう。しかし実際は、許すことも忘れることもできはしない、自分はそういう人間だとわかっている、つもり。
「許さなくていい、共存していきましょう」という人が居る。全てにおける許しができないのならそうするしかないと私も思う。しかしそれもまた容易くはない、そして引き続き苦しいということだ。“共存”と朗らかに笑って言う域には、私はまだ達していないということだろう。許さない、ならばどうすればいいのか。私が恨もうが許そうが、対象にはもう届かない、何の影響もない。対象が許しを乞うてくることもない。(もしそんなことがあれば、もっと早くに“解決”していたはずだ。)“私だけが覚えている事実”になってしまっても、それを確信してもなお、沼に足を取られている気分なのだ。
“汚点”と言ってしまえば、見続けるのが苦しくて、早々に手放したくなるだろうか。数も一つではないし、それ以外のもので誤魔化そうにも、日常の端々にちらついて思い出してしまう。整頓しきれないのが人間心理と思っても、納得しているフリが上手くなるばかり。