ドント・テル・ミー
「どうして?」と単なる疑問として投げかけられた言葉すべて、なんだか責められているように感じるところが、正常な判断では無いよなぁと思う。やっていることに対しては「意味ないよ」「やめなよ」と言われているようだし、現状や気持ちについては否定されているよう。実際はそう言われていないことを、耳で聞いてわかっているんだけど、どうしてもその「どうして」の出処を探してしまう。「どうしてやる気がないの?」そんなんわかるかよ、と口に出そうになる時はもはや怒りに近づいている。
高を括ってそうなのに怖いのかな。全て諦めている素振りで本当は諦めが悪いのかな。私は、余裕そうに見られて次々可能だと思われることも、繊細そうに見られて気を使われすぎるのも嫌い。自分でも、自分に対するアクセスをいい塩梅に捌けないし、人に「いい感じ」で自分を扱ってもらうのも難しい。たった一人の多面的な自分であるけれども、それぞれ独立したパートで自分が何人もいるみたい、とも思う。ひとりひとりが、ひとつずつ天秤にかけるようにして、かけられる言葉にどんな感情が混じっているか、計ろうとしている。あらゆる場面でネガティブが勝って、結果「責められている・怒られている」と思ってしまうに至る。両極端にもなりうる考え方が、最低でも2つ以上あって、どれも顔は自分だから「自分はどう?」と訊かれて、困る。
言い訳ばかりの自分を、その場しのぎの自分を、一生責められない世界なら、ずっと生きていけるか、というときっとそうでもないのだろう。都合のいい言葉ばかりを繰り返して、それによって否定されて傷ついても、なんとなく生き続けるような今がある。責められても怒られても、延々と嫌だなぁと思うループに陥っても、私の姿勢が変わらないなら、それを警戒して構えていること自体、意味のないことだ。生意気に反発したとしても、実際には否定などないとわかれば、全てが思い込みだったとひとりで恥ずかしくなるだけ。
時にヤケクソな気持ちになって、私のことどうせ全否定なんでしょ!何もかも自分の思う逆行けば成功するんでしょ!なんて言いたくなる。(こじらせてんなぁ。)「君の選択は全て逆だったらよかった」なんて言われたとしても、「何をォ~!?」と言いながら「そうだったんだ...」と妙に納得することだろう。「どうして」というシンプルな質問に瞬発力で答えられない私は、えっと...と言ってる間に次々と✖を貼られている気分だ。貼られたところで「しょうがない」と呟いているが、チクリと痛みはあるんだ。勘違いでも、痛んでいるんだ。