こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

再飛来

久しぶり。ここに何かを書くのが“今”になるのは、少し想定外な気分である。

何事も「自由に」「気楽に」「気紛れに」と思い続けて、それが自分に合っているつもりだったのだが、本人の性質の一部はどうやら違う所にあるらしい。例えば、テトリスの連続全消しの時に得られる快感、とあるサイトやゲームのログインノルマで1週間・1ヶ月完遂を目指していること、文書のフォントやレイアウトが揃ってないと内容に不備が無くても気になり続ける、とか。そして、SNSやブログを「始めたからには“コンスタントに”、できる限り“毎日”やらねば(無理だったなら確実に埋め合わさねば)」と考える。全て自分に対しての“決め事”。
枠にはめること、ノルマを課すこと、ルールを設けてそれをきっちり守ること、規則的に、同じ量・同じ体裁であることが美しい、などなど。少し冷静になって振り返れば“そうでなくても別に構わない”ことばかりなのだが、なんだか妙にこだわるよね、自分。そういう“部分的真面目”というか、“一部完璧主義”というか、些細な部分に・偏って、追求してしまう所が私にはあるようだ。

いや、誰しもにあるのかもしれない。日常生活のほとんどはざっくり大雑把なのに、ある部分だけはきっちりしてないと気が済まないというような、ピンポイントなこだわり。私の場合、実際には気持ちだけ前のめりで、行動が伴わないことが多々あるわけだが。目的はほぼ自己満足で、実行されなくても結果失うものは気持ちだけだ。きっちりしないと気持ち悪い、それだけのこと。しかし、こだわる過程は快適ばかりではない。そもそも面倒くさい、変にプレッシャー、苦しい、焦燥感。自ら進んで課したことなのに、ふと「本当にそうでなければならないのか?」と自分自身に疑念を持つ。“完璧”はイコール“満足”になり得るか。何をそんなに、必死にしがみついているのか。

自由人でいるようで、いつのまにか自分で自分を縛っている。昨日今日の話ではなくて、昔から指摘されていた所だ。命令されるのは嫌い、自由でいたい、けれど自らルールを決めノルマを課し、多少追いつめられることで力を発揮できるとかなんとか言いながら、目標を追いかける側がいつしか追われる側となり、結果達成しなかった自分に憤る。ずっとそれを繰り返していたら、自己評価も下がるはずだと呆れ声で言われた。一向に達成感を得ることができず、延々と情けない自分のまま、だからだ。

厳しい条件下で努力し続けること、その結果何かを達成することには、確かに価値があると思う。結果が出なくても過程が大切だ、というのも理解できる。しかし、自分の儚いメンタルを知っていながら到底無理なノルマを思い付いては挫折するのは、誰も求めてないのにひとりで勝手に空回りしていて、滑稽ではないか。いろいろこだわるわりには、諦めが早い。それは自分に対して元々あまり期待していないから。「~せねば」は自分の望みではない、ただの条件だ。無事達成した際の何らかの“報酬”も、本当に“必要”かというと、正直わからない。それでも繰り返す自己“不”満足のループに「いいかげんにしろ」とも「勝手にしろ」とも思われてるかもね。

まあ本当は、そんなに仰々しい話じゃないんだ。日常のほんの些細なところにこの“よくない癖”が溢れていて、なんとかそこから一歩脱したいと、今は思っている。連続ログインが断たれたって、...そりゃあ確かに残念だけれども、だからといって死ぬわけじゃなし、明日からまた始められる。ブログを毎日継続できたら“エライ!”とはなるけれども、記録が途切れたからといって“クズ”になるわけではない。自分で定めたルールを破ったとき、情けない気持ちになるし自分自身に信用なくなるけれど、自分の中だけのこだわりだから他人に迷惑かけることもないし、自分が損するものも案外少ない。その時点ではいい結果を“得られなかった”だけ。そもそも最初から条件付けをしなくても、自分はそれなりにやれるのかもしれない。

ということで諦めることにした。ココの穴埋め更新も、定期更新も。既に破綻しているのだから、わざわざ改めて宣言するのもなんだが。「やっぱり高望みだったか~」とも思うし、「なんでちゃんとできないんだろう。なんで自分で決めたことが守れない・達成できないんだろう。」と自責の念もまだある。毎日更新は大々的に掲げたわけでもなく、単なるこだわりだったのに、少しズルをしながらでも執着し、勝手に義務感や罪悪感を覚えていった。しかしそういうのは一旦手放して、あと少しだけ“自由”になろうと思う。あ、何かの拍子に毎日書く日が来るかもしれないし、また何ヶ月も空くかもしれない。全削除だって、突如の停止だって、徐々にフェードアウトだって、有り得る。全ての可能性を含んだ上での、本当の自由。これは今思うざっくりした希望で、“そんな感じで気楽にやりたいんだよー”という自分から自分への意思表示。

これから。長年染みついた考え方はそう簡単に変わらないだろうけど。いい意味で、自分に対して放任主義になりたいな。枠からはみ出さしてあげたい。勝手に義務感や罪悪感を持って自爆したりせず、固定観念を取っ払いたい。失敗を怖がらないように、規則的だけが正義じゃないんだと、おおらかに思えるようになりたい。そんな風に、本来怠惰なありのままの自分を、何もできない自分を、受け入れることは果たしてできるのだろうか...。

こんなに長文になってしまうことも、まだまだ自己嫌悪するけれど、まとめ能力の無さも私の一部だと、気楽に捉えられる日がくればいいなぁと思う。

 

真顔で見つめるその先

(前置きとして;

この記事を編集した今は2022/08/15前後です。今年5月前後に思い至って書き留めたメモのような文章を、当時更新停止中だったため、まとめあげることなく放置してました。もとよりここは脳内垂れ流しだったわけで、うにゃうにゃ考えたものをとりあえず出しとくか、と急に思い立ち、実行した、ただの自己満足です。)

 

金カム展の宣伝に際し、美術展ナビの「旧日本軍の本物の軍服かっこいいテンション上がる」ツイートで炎上、の件について考える。

「これはアカン」派の女性の引リプには理解できるし賛同する。作品自体はフィクションであっても、展示されたモノは実物であり(そこにコレクターとしての一種の優越感も垣間見えるが)、物語背景とされる歴史は事実だ。作者さんも恐らくリスクを背負って題材とし、覚悟があるから描き続けてこられたんだと思う。作品は好きだけどこのツイートはアカンと言っている読者たちは、楽しく面白いだけじゃない、歴史観や知識、思考を深めながら読む、読める漫画という認識っぽいな。だからこそ、世界観やキャラクターに対しての“萌え”の意識を、(本物の)衣装にまで向けてしまうのは危険、ということか。

アカンと言っている他のリプも見てみて、ナチスを例えに出して説明してるのも、厳密には同じじゃないけど、わかりやすかったし納得するところもあった。“かっこいい”という言葉に至る感情の正体は一体何か。「この服は加害者が着ていたもの。虐殺や占領などの蛮行を想起させるであろうこの“本物”の服を、“ミーハー”にかっこいいと言えちゃうのはあまりにも残酷」その思考は理解する。「あのマーク、またはそれを模したマークや記号、また当時の軍服そのもの、それならずとも真似した衣装などは被害者を傷つけるからという理由で排除される」ということが当然となる。

罪というものは、同様の とか、同程度の とか、似たような と表現するのは少し違う気もするが、では件の旧日本軍においてはどうか。罪・加害を行った集団または個人が、その当時に使用したもの、身につけていたものについて、「加害者の姿=加害そのものを想起させる悪」として認識されているか。「アカン」派の人はそこを意識している。加害者の姿を軽く「かっこいい」で済ませてしまう感覚...時代背景を全く読み取れていない、それが“どういう意味で現存しているか”思考的な方向でも軽々しく浅い、と嘆いている。それは彼らの説明から強く感じた。そして他と比べて(比べられるものではない、というのはひとまず置いといて)、多くの日本人はきっと前述の認識は薄いのだ。そういえばこないだ真鍋かをりちゃんが、おじいちゃんが樺太でロシア人にひどい扱いを受けて、自分自身は何の恨みもないけど、やっぱりそんな昔話を聞かされ続けていると、ロシアに対するイメージが悪い、という話をしていた。そういう人は、もう少し敏感になれるかもしれない。“占領”や“虐殺”という言葉にすぐ反応できて、リアリティがもう少しあって、今いる日本も、“旧日本”も時系列が違うだけの同一の日本であるという意識、“我が”日本の加害・罪という認識も持ってそう。ただ、そういう人は実は少ない、ということだろうか。

今回の炎上、についての結論は、私も大いにミステイクだと思った。言葉選びが下手だとも思った。それでいくと単語を変えれば成立するか?それでOKが出るかはわからないが、例えば胸騒ぎがする、とか?興奮しますとか圧倒されますとか迫力がすごいとか?月並みだけど、かっこいい!よりは穏便になる気がする。受け取る側の感覚や感受性に委ねられるという...ずるい考えかしら。穏便を選ぶ理由としては、やっぱりデリケートというかセンシティブな状況だと思うから。作品の存在自体が腫物だというつもりは全くない。むしろ素晴らしい作品だと思う。でもそれに対する向き合い方、関り方は、丁重にするべきじゃないかなと思う。歴史的事実を元にしているなら。ノンフィクション小説や、ドキュメンタリーだって、同じ。作る側は当たり前に神経使ってると思うけど、受け手側も、面白がる部分や茶化してはいけない部分、観るより先・自分の中で反芻して思考する部分と、ちゃんと捌いて理解して吸収するスキルが、ある程度求められているとも思う。

とはいえ、私にもモヤるところはあるのだ。当該ツイに対する批判の中で「ん???」と思うものもちらほら。「軍服賛美は軍隊賛美の危険性」うーん?単純にイコールしていいものか。「キャラクターへの“萌え”ならともかく、旧日本軍の軍服の絶賛を是とすることは、この展覧会自体に、あの時代の日本が行っていた、侵略や虐殺や植民地支配や同化政策や拷問などへの“憧憬”が込められているということに...」うーん?憧憬?賛同?本当にそこに在るのかしら。そして何故そんな極論...?「作品のファンはキャラかっこいい!じゃなく、侵略の責任や罪を考えながら読んでる」それは立派で結構なんだけど、なんだか主語が大きくないかい?(私は個人的に「私たちファンは」というような勝手にファン代表のような物言いが苦手だ。極々個人談です。)

「残酷な加害を想起させる軍服を“萌え”に絡めて単純に“かっこいい”と論評することは実に浅はか」という意見は理解したが、軍服を「美しい」と思うのはどうだろうか。私がもし、今回の炎上を知らず他の事前情報も見ず考えず、ただの漫画ファンとして実際に展覧会に行って実物を見るとしたら、恐らく「きれい・美しい」と呟いていたと思う。それは保存状態に対してではない。(もちろん貴重な展示品を価値あるものとして上手に管理されていることは尊敬する。)私の趣味嗜好として、軍服や制服や民族衣装を「美しい」ものとして見ているからだ。それをただの“軍服萌え”と言われてしまえばそれまでだが。同様に戦車や兵器もだ。特に型番など詳しくもないにわかのにの字にも値しないレベルなのだが、フォルム、線、動いている姿など、見た目を“好い”と思っている。けれどもその“美しい”見た目の戦車や兵器の、その本質は戦闘や殺傷だ。私は決して暴力を推奨しない。戦争も、人殺しも反対だ。そんな醜い世界は見たくない。それが必須ならば私が死ぬ。(と話が飛躍しすぎた。) どんなに「あの部分のラインが好き」と言っても、過去にそれを使って残虐行為があった、となると、私の思う「美しい」も躊躇わなければならない思考だろうか。

何千何万と人を殺した兵器を美しいだなんて!、と誰かに責められるだろうか。占領の苦しみを想起させられるといっているのに、戦車を「美しい、かっこいい」と言うだなんて、と怒られるだろうか。(もしくはそれらの装備モノと軍服は別問題とする人もいるだろうか。)

初見でかっこいいと思った軍服も、その背景を知ればそうは言えなくなるって、本当にそうかしら?美しいと思った飛行機も地上へ爆弾を落とした兵器だと知れば、美しいとは思わなくなる?もしくは美しいと思っても口にできなくなるのか、空気を読んで。

歴史的背景や人の想いを慮ればそうもいってられないというのもわかる気はしてる。でもまだ別の所では、私の無機質なものに対する好意、物質として形としての美しさに魅かれる心、服でいうとデザイン性などの自分の目に映る“画”として興味や興奮、それらは消えることなくここにある。だから今回の議論にはいまだ“解決”を見つけられずモヤモヤし続けている。

 

逃がしたろ

3月になってしまった。ので、考えたことがある。がんばって毎日(分)書くぞ、と始めたこの場所、1年で区切りがいいのでひとまず、“毎日”は辞めようかな、と思う。と言っても、まだまだ未更新の日付分が残っていて、秋の中飛び、近々の2ヶ月間はガラ空きなのだが。だから実際は全く終わってなく、そして終われない。しばらくは引き続き“穴埋め作業”のようになるが、書くスタンスとしては特に変わらないはず。できるだけ早めに、“消化”したいな。自分との約束として。

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