こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

wish you are...

「友達はどうしてる?」と家族に訊かれても、私にはちっともわからない。ほぼ全ての人と、ほぼ連絡を取っていないからだ。別に嫌いになったわけじゃない。着拒もブロックもしてないし。自分からアクション起こさないからどうでもいいってことでもなくて、元気かなとか幸せに暮らしてるかなとは思う。でも正直そこまで首をつっこみたくない。ただ健康に幸せに生きててくれたらと思う。私のこと、覚えてるなら嬉しいけれど、何の益も快ももたらさないから、忘れてしまったらそれも仕方がないと思える。みんながどうなのかはわからないけれど、私は“こんな感じ”でも、相手を大切に思っているし、幸せを願っている、つもり。

ニュースで「SNSにより若者の自尊心が削られている」っていう話題をやっていたけれど、それは確かになぁと思う。別に若者に限らないと思うけどね。私の“無意識の傷つきやすさ”もここに含まれている気がする。別に何の悪気のないInstagramのきらきらした投稿に、憧れや羨望やどす黒い感情が交錯する。その人の知識や経験や努力で裏付けられたおもしろいツイートに、尊敬する気持ちと疎ましい気持ち、“いいね”を押しながら恨めしい気持ち、好意とその対象が自分ではないことの絶望。目に見えないものが重く重くなって、でも目に見えるものを“見た”のは自分だから、抗えなくて息苦しくて、「自分なんて所詮」と思ってしまうのは当然だ。しかし、これによって、SNS全てが害悪と言い切ってしまうのもどうだろう。確かに、敵も負傷者も作るけど、戦い方やいなし方、受け止め方や受け入れ方は訓練できるのかもしれない。でもでも、そこまでして必要なものかと言われると、結局「人による」なんだろうなぁ。

私は身近な人のSNSで舌打ちも出ないし、可愛いものは可愛い、好きな人は好き、と思うけれど、それでも時折苦しくなったりしてたんだ。人が、幸せであればあるほどありがたい、嬉しそうに楽しそうにしていたらとても安心する。それがその人の見せるたった一面でしかないことはわかっている。それを知れること自体は、決して悪いことじゃないと思っている。けれども、私を顧みると、そこには何故か暗い黒いものしか見えてこなくて、並べて語ることに違和感がある。比較を意識しているつもりはない。でもなんだかんだでしてしまっているのだろう。「友達だの知り合いだの名乗る資格ないな」って、だんだんそういう気分になってくるんだ。だからね、もう適宜遠ざけることにしたの。つかず離れずが、“自分たち”にとって良い選択かは正直もっと先にならないとわからない。でも現状の“自分”にとっては、それが良い気がしている。今は離れて祈っているよ。話す時が来れば話すし、会う時が来れば会う。削り取られてなくなっちゃう前の作戦なんだ。念が届いてたらついでに「ごめんね」。

 

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