こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

belong now

結局決めるのは自分なので、これが恋だといえばそうなのだろうし、あれは恋ではないといえばそうなるのだろう。だからこそ、人間の感情は複雑だと改めて思い知らされている今、名付けられない気持ちや関係の正体は一体何なのか、知りたくなってしまった。

世の中には様々なカテゴライズがなされている。私はそもそもカテゴライズがあまり好きではないのだけど、個にこだわりすぎて話をややこしくするのもどうかと思うので、ある程度のグループ分けは必要だと思っている。セクシュアリティ(性自認性的指向)や道徳観・価値観、名前・呼称や社会的立場や設定する立ち位置、多種多様をカテゴライズして、なんとかこの世界におけるパーツのひとつになっている。全てを受け入れまくることはリスキーだ。だとしても、私はあらゆるカテゴリーの内容を“有り”だと思いたい。もし自分が“多勢のいう普通”から溢れた存在だとしても、該当するカテゴリーがあるというだけで、少し安心するから、というのもあるかもしれない。分類わけは排除を目的としない。あくまで“わかりやすさ”そして“認めるため”の手段だ。多くの人が知る“ラベル”がなくても、例え名無しでも、確かに存在はしているのだから。

異性愛が“普通”じゃない、それは“カテゴリーのひとつ”だ。恋愛感情がない人間もいる。都合よく“身体と感情は別”と言われたりもするのに、“好き”と“性的欲求”がリンクしてないとおかしい?んなわけない。“欲しい”があるなら“欲しくない”もあるはずだ。神様の言葉だって、科学的に雌雄を論じられたって、どれも信じていいけれど、ひとりひとりの心の中は本人以外の誰にもわからない。人間だから、もしかしたら間違いを犯すかもしれないし、勘違いや矛盾も生むだろう。それでも“在る”ことを何にも否定されるべきではないと私は思う。

私の過去の恋人たちは皆異性だけれど、異性だからと選んだつもりはない。これもだいぶ失礼な話だが、子供の頃、自分の中で“好きな人ランキング”があって、中身は男女ごちゃまぜだった。たまたま1位の人を追いかけたり告白したりしてきたが、性別や年齢はさほど気にしていなかった。気がつきゃ好きになってる日常において、“好きな男子”とか“彼氏”という言い回しで盛り上がる同級生女子が少し苦手だった。話はわかるから笑っていたけれど。恋人のことを“彼氏”と呼ぶことに違和感を覚えるのは、その頃のモヤモヤが始まりだったんだと思う。

「好きだから好きと伝える」単純さに周りから驚かれるくらいだったが、これも見事に他意はない。私にその先、次の段階、ゴールみたいなものはないのだ。ありがたくも相手が好いてくれたのならば、新たな関係を築く可能性がある、というだけ。今までずっとそうやってきた。関係上で生まれる欲求も、“好き”の思い始めからは直結していない。欲求だけ存在している時もあるし、“好き”だからといって必ずしも生まれる欲求でもない。

私には女性特有の悩みがあり、女性の方~と呼ばれて返事ができる、「君のそういうところが女の子らしくて好きだよ」なんて言われたら全く喜べないけれど、私の性自認はそんな中で定まっている。「異性(というカテゴリー)の中から相手をチョイスした」つもりがなくても、「結果的に相手が異性だった」と言っても、「結果的に異性のみが相手だった」という事実により、私は異性愛者とみなされるのだろう。正直、だからなんなのだという話だ。みんなだってそうでしょう?

 

カテゴライズ セクシュアリティ 多種多様 マジョリティとマイノリティAmazonで検索