こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

どこから素顔

カテゴライズに怯える私だけれど、そこから生まれる暴力に無意識に加担してやいないかと、時々緊張する。「女の子だから好きなの?」いいえ、私はその存在そのものに可愛さや美しさを感じるから見ている。結果を集計すればそりゃあ数に偏りはあるだろうが、それも結果に対するカテゴライズだ、勝手にして。「男性は皆ダメなの?」いいえ、男は という指定も、全員が とも、何一つ言ってなくても、そういう質問がぶら下がる。“良い”の対象の“逆”を勝手に据えて、叩かせようとして、なんでそんなに争いたいの?もし“ダメ”があるとしたら、それはその事象や個人であって、一定の条件でソートされた人達のことではない。ラベルを貼られて否定されたい人間が、果たしてそんなにいるのかしら。

こないだの“価値”の話もそうだけれど、嫌な気持ちにできればなりたくないじゃない。赤の他人の発言で辱めを受けるのも嫌だし、孤独を必要以上に強調されたり、大多数だけが正義なんじゃないかと安易に思わされる世界も嫌だ。あらゆる思想や気持ちは尊重したいけれど、差別や偏見を愉しむ人間には絶対になりたくない。そう、なりたいものってなるとうまく答えられないことが多いけれど、はっきりとなりたくないものはいくつかちゃんと挙げられるんだ。

毎日どこかしらで見かける議論に、活発を喜ぶ気持ちと、未熟を嘆く気持ち。自戒も含めて、ギラついている意見も一度は目を通してみることにしている。いくら世の中の大概が、自分の書く文章より何百倍もわかりやすいとはいっても、やはり凶器な言葉や内臓捻られるような意見には疲弊する。何様という感じで「ま~だこんなこと言ってんのか」と思ったり、「なるほどこれは新鮮な視点(但し消し去りたい)」と思ったり。当たり前だけど、日々人が傷ついていて、私は時々、自分も人であることを忘れて見入ってしまう。「ああよかったね」「ああよくなかったね」多くがまずは自分の身近から、と呼びかけられているのに、人様の感情や傷や疲労や行動が、とても気になってしまうんだ。

私も長らく「そのまんまの意味」を理解してもらえなかった。ぃゃ、今はOKとは断言できないが。自身が深読みの代名詞になるぐらいの性格だが、大人になってようやく「深読みと疑り深い」の間に薄らでも線が引かれるようになってきた。そしてそれが、あくまで私から他者への一方通行の癖であると気づいたとき、逆に他者から私へのアクセスについては、“深く読まれる準備”は別にしていないのだとわかった。探られる、裏を読まれる余地なく、私はいつも「そのまんまの意味」で思っている。追及されても、えっ?ってなる。だってそうじゃない?言ったまんまだよ、って。「あの子可愛いね」って言ったら「じゃあ自分は可愛くないってこと?」って変換されるのおかしくない?「黒を選んだよ」「じゃあ黒以外は嫌なんだね」ってのも選んだって言っただけで嫌とはいってないのに何故そうなるの?現実ではこんな単純な話ばかりではないけど、わりとある。人間が増えるほど、状態が複雑化するほど、信じるのも信じてもらうのも難しくなってきた気がしてる。

 

カテゴライズ レッテル 差別と偏見 信じるAmazonで検索