こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

君は僕の君で、僕は君の僕で

私には親友(発信するときは便宜上そう呼ぶが実際世間でのそれとは恐らく趣が異なるであろう関係性の人間)がいる。いる、と言っても、それは私がそう思っているだけで、相手はそう思っていないかもしれない。向こうが私をただの同級生ぐらいに思っているとしたら、寂しいけれどまぁそれは仕方がない。何にしろ私の中では他の友達とは一味違う存在がいるのである。

ちなみに以前にもここに書いた気がするが、私は友達という概念を未だよくわかっておらず、関係性に対しての“友情”、相手に対しての“友達”という肩書き、など“名付ける”ことに違和感がある。私にとって、○○は○○でそれ以外の何者でもない。生活の上でのカテゴリー分けは都合であって、感覚の上ではそれぞれが“単独”なのだ。とはいえ冒頭にも書いたとおり、世間一般でいうところの恐らくソレ、くらいの感覚で、友達や親友という単語を便宜上利用している。Friends、仲仔とかでも同様である。

当該の親友とはいろんな状況を経てきた。今現在、というか近年は、年1回の生存報告くらいだ。毎日話すことができた学生時代と今が、もう人間変わった?!ってくらい違うことはわかっているが、それにしても極端だなと我ながら思う。誕生日が来て、生きてればいいと思う。恐らく向こうも、それぐらいだろう。ワンテンポ遅れた返信も、“それぐらい”に含まれる。しにたいと言えばしぬなよと返ってくるが、何が何でも引き止めたりはしない。立場が逆転しても、考えること言うことやること、大体似たようなものになる気がする。

思春期に、“自分たちは鏡のようだ”と言ってたことが妙にしっくりくる。相手の自由を尊重しているようで、実は臆病なあまり冷たくあしらっているだけ。相手にかけている言葉は、自分に対して放つ言葉。相手の目を通して、自分の姿を見ようとしている。だからと言って、私が寂しいのだから相手も寂しいはずなんて、傲慢にはなれない。それはただの自分のわがままだ、相手には関係ないということもまあまあある。

随分と長い間、迷惑をかけてきた。人生を揺らがすほど、振り回したこともあったかもしれない。私の“ごめんね”も軽く聞こえてたかもしれないな。深刻な“バイバイ”は、今生の別れみたいになっちゃうから、いつもまた明日も会うような声色だった。一番最近直接会ったのはもう2年前くらい?それでもなんとなく今までとさほど変わっていない姿を想像する。住む場所が変わっていざ と会いにくくなったり、恋人ができたり、新しく家族ができた日には、私、縁切るかもしれないな。別に脅しとかじゃなくて、単純にそう思った。いずれ来るかもしれない人生のステージの変わり目に、世間に出回る言葉では説明しきれないようなこの感覚・気持ち・関係を、その先も持ち続けることは、なかなか難しいことだと思っているんだよ。「願わくは君がそこに存在してくれてたらいいな」とは、とても個人的な、ただの願いだ。

 

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