こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

降って溜まる

図らずも好きになってくれる人を好きになりたい。でも自分でも嫌いな自分を、好きと言ってくれる人のこと、だんだん好きじゃなくなっていく気がする。私(じぶん)が嫌いな私(ひと)を好きだなんて、気が合わないね、みたいな。好きな人の好きなものを嫌いと思いつつもそばにいるって、結構辛いもんなのよ。

私を励ましてくれる人は皆「大丈夫」と言ってくれるけど、一体何が大丈夫なんだろう。何の保証もない未来を“大丈夫”と言われても、大丈夫じゃないことは自分でわかっているから、放り出されたようで逆に不安になる。無知は恥と言われたり責められたりする、だけど無知は幸せだ。私ももっと知らずに単純だったら、今よりもっと素直に“大丈夫”を受け取れたのに。

サイコパスなら、傍若無人に振る舞っても(自分が)傷つかないの?好きに生きてその結果自分にも周りにも影響があって、他人を傷つけるとき自分もまた傷ついている。けれどもそういう感覚を持たなかったなら、本当の意味で傍若無人に、イノセントな狂気に、人生を任せたって不安に駆られることはないのかしら。

私は時々、過去の思い出に傷付けられに行っている。記憶の欠片に触れると、途端にダイヴしてしまう。解決していない「何故?」という感情が、忘れかけてたのにわっと押し寄せる。苦しかった日々を恋しくは思わないので、まだ美しい思い出にはなっていないのだろう。これから先、完璧に美化されてしまったら、なんだか負けた気分になると思う。恨み・妬みに支配されてはいないけれど、まだ、“全てが自分の糧”だなんて言いきれない。そんなに強くないよ。それに、全部が全部忘れてしまうことがいいのかどうかも、まだ決めかねてる。辛いことや悲しいこと、丸々なくなればすっきりするかもしれないけど、それだともう“自分”じゃない気がして。私を形作るものが、決して負の感情だけではないと思いたい。

「何もしていない時のほうが時間経つの早くない?」ってくらい、思いの外生き永らえている。時々赤ちゃんの頃を思い、死んだ後のことを思う。どっちも今の私には知りえないことだとういうのに、そういう“無駄”に脳内領域を預けて、日々をひとつずつ終わらせている。無理して限界量満杯まで詰め込む必要はないけれど、私の人生には“空いてる”部分がかなり多いのかもしれない。ぽろっと後悔を零したなら、周りの人はすかさず言うだろう。「まだ間に合うよ」と。そうやってこのアディショナルタイムをまた延ばすことになる。

“きれいな世界を見たい”とよく言うけれど、全てがきれいになったら“きれいじゃないもの”がわからなくなるから、やっぱり程度は肝心なのだ。多様性も矛盾も、そのものの良し悪しではなく、いかに美しいかどうかで判断している。だから守れないものも当然出てくる。それも全部含めての“きれい”、私は話をまとめるのが苦手だけれど、聴く耳持たないわけではない。ただ息のしやすいさを求めているだけ。

 

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