“何か”とは何か
何かを発信したいのに何も思いつかないという人が、ネタを作るために日常を忙しくする、という方法があるらしい。なるほど。怠惰が基本の私は全然思いつかなかったな。そして、思いついても「やだよ、忙しいのは。」って言ってしまいそう。けれども、行動しなければ何もない、というのも事実だと思うし。レベルの低い葛藤だなこりゃ。
私はここで考え事を晒すしかやっていないわけだけど、それも自己満足の極みで、“全て”を書いているわけでもないし、真実だけとは限らない。現実に目で見えているものも“完全体”とは言い切れないのに、“見たいものを見る”脳内世界には、まだ私自身も知らない私が、しれっと“存在”しているのかもしれない。
好きなものについて嬉々として語る自分が、空想上の人物だと言われてもなんら驚かない。「そういうもの」と想像はできるけど、「これが私」と実感したことはまだないからだ。私の思う、というより、私の体感している自分は、印象が限られていて、「それらでない」となれば、それはもう自分ではないんじゃないかという淡い恐怖と好奇心を同時に覚える。まさしく“生まれ変わる”のならば、それは歓迎する事態なのかしら。私は私以外にはなれない、そしてその自分が嫌いという前提から、意識が覆ることがもしあるのなら、他人事のようだけども、ぜひ知りたい。理由とかきっかけとかはこの際どうでもよくて、その事実を体感したい。
「いずれ稼ぐための先行投資なら厭う必要はない」と言われた。それって生きていく気満々じゃないとツッこむと自分でも可笑しくなった。“何か”行動を、“何か”決断を、“何か”意欲を、と周りが言うたびに、自分以外の方が自分より熱量高くて、うんざりしてしまう。「結果なんてどうでもいい、今この瞬間が大事」と訴える目は、その部分だけ同意する私を突き抜けてまだ在りもしない未来を見ている。気苦労させているんだろう。人の為にと考えられる人はみんなそうだ。自分のことは置いといてでも“私”のことを言う。だから自分のことを置いとけない自己中の気持ちは、半ばわからないのかもしれないな。
無機物の中、変化のない生活でも、哀れまれるのはおかしいよ。それなりに楽しみ、それなりに満たされる。大いに満足するのは、毎日じゃないほうがいいでしょう。上限もわからなくなることが、羨ましいとは思わない。普通を過ごしていないからか、普通の満足とはちょっと違うみたい。ここにかろうじて無償の愛なんてものが在るとしても、意識しなくなったら残るのはたぶん孤独感。それを怖いと思えるうちはまだ大丈夫。大丈夫、そう言い聞かせている。誰にも聞こえないように。