こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

i, my, for me

誰かの為に生きることが逃げだとしたら、逃げたっていいのにそれをしないのは何故だろう。自分のことだけ考えて生きることが甘えだとしたら、甘えちゃダメな理由を上手く説明できないのに、そう簡単にはできない、と言い切れちゃうのは何故だろう。生きがいはそこら辺に落ちているものじゃなく、自分で作り出すものだとしたら、いつまでも見つからないと言っているのは理想が高すぎるということだろうか。人としての営みはそんなに大層なことばかりじゃないのに、何に対してそんなに構えているというのか。

物事を難しく考えすぎ、と言われるが、ただの自己都合である。遠いところにいる誰かにとか、これから生まれ来る人にという意識はほとんど持ったことがない。全てが自己完結だし、一瞬一瞬の感情であって、明日の自分については知ったこっちゃない。それでも私の中の生命維持機能は働いていて、果てのない考え事もそれと連動して続く。

もし長らくココを読んでいる方がいるならば、伝わっているかしら、ネタ切れ感。当初も言ってたけど、同じ話ループするのは仕様だし、それくらい相変わらずの脳内ってことだね。ネタ切れというと書く事がないって感じだけど、正確にいうと「新鮮味のある話ができない」ってこと。書いてる方も「あ~これ前も言ったかもな~」って思ってる。でも、しかたがないのだ。私の頭の中だから。限りある引き出しを開け閉めしているだけだから。多少リアリティを失っても、妄想の域を出ない。使い回されている言葉を巡らしているのもまた、使い回されている脳内だから。

自分で自分にリミットを課しても、イマイチ真剣味がない。いつも、既に“間に合っていない”気がしているから。哲学や思想に己を求めても、言い訳探しにような自分のやり方に気付くたび苛ついている。「生死や倫理や感覚の話をしていても、生活は成り立たないよ」と何度となく諭されても、「必要だ」の一言に全てを無視して寄りかかってしまう。実際、「必要」で息は出来てもご飯は食べられないことが、わかっていても。目下の事に集中できずに、それでも生きられる恵まれた状態に、何とも言えない不快感を視線で送る人間が、周囲にも、自分の中にもいる。「どういうつもりなの?」と面と向かって言われたほうがまだ楽だけど、それに対する「上手い答」も持ってないしな...結局「どうしようもない」。

分析にもなっていない駄弁の羅列でスペースを埋めるけど、善し悪しは自分でもわからないな。自分がどうのこうのは、他人が一番興味のないものだとも思っている。それをわざわざ出すということは、他人に無視されたいのかしらとか、つくづく他者との関わりが好きじゃないのかしらとか、自分自身を不可解にも感じるね。「何がしたいんだ」とは近々口癖になるかもしれない。

 

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