持つからこそ失える
「自己肯定感を高めるより、自己否定感を下げることです」とどこかで読んで、なるほどなと思った。しかしどっちにしろ、どうしたらいいのかはわからない。そこまで日々追い込んでいるわけでもないし、「私は本当にダメなやつだ」と自虐を続けているわけでもない。ほとんどを「まいっか~」「しょうがないねー」と諦めているし、非難や否定に“実感”はないのだ。「まずは自認」ともあったけど、今以上に「これが私だから」「ま、私は私だし仕方がないねー」とか言いだしたら、なんか調子乗ってると思うんだけど。自分の現在の仕上がりを認めることに、それ以上もそれ以下もない。肯定も否定も、プライドも恥も、また別の話かも、と思った。現実では、肯定感高くてもいろいろ失う人もいるし、否定感強い人でも生き続けているし、そこにこだわること自体、己を縛っている気もするなぁ。
理想と日常が合致している人は本当に少なくて、誰もが理想の一部を実現するために、異なるフィールドで日常を営み糧にしているらしい。完全なる実現は夢のまた夢だけど、その為の遠回りは決して苦だけじゃないという。夢や理想は叶わないからそれなのであって、好きや嫌いやの問題ではなく、安定した日常を求めることが人間の“やり方”だ、と考える人もいる。やりたいことだけやって生きて死にたいから、“普通の日常生活”はむしろ邪魔で煩わしいと思う人もいる。
夢を追い、思うように生きよ、という言葉は、それをするのに何不自由ない人間に対してならまだしも、買われるほどの気力はあっても今日生きるのに精一杯の人間にとっては、疎ましくもなるだろう。生活基盤を整え、明日そしてその先を生き続けることを考えよ、という言葉は、理想世界で生きていきたいと考えて止まない人間に対して、求めていない日常を送るために人生という限られた時間を無駄に使ってしまう恐怖と、現実を生きる億劫さを与えるだろう。異なる価値観の上で自論を成立させて生きるのは、ままならなくて当然だ。夢の中のように自由に生きる人も、他人が欲しがらないような日常で一生を終える人も、数は少なくともゼロではない。ありえることだ。他人か自分か、それはわからないけれども。
夢を描くから、希望も絶望もあると思う。目標があればそこを目指して努力するし、挫折したり逃避したり、もう一度発見したりすることもできる。理想の形を持っているなら、それを意識することも、見なかったことにするのも、自由だ。人生にとって、要る要らないを自分で選択できる。しかしそれらが全くなかったら果たしてどうだろう。対象がなければ興奮もしないし遺憾もない。何も叶わなくて意気消沈することもなければ、ほんの少しの達成でやる気を漲らせることもない。それって...もう感情が死んでない?しんでるって言わない?それ。完璧主義の0か100、自覚は未だ薄いけれど、「“ちゃんと”できなきゃ意味がない」って思い込んでるところがある。夢か現実、DreamerかRealist、もっと単純に“ある”か“ない”か、“ないならおわり”と、結論を急ぐ理由を自身もまだ知らないまま。