それが消滅といわれても
毎日独り言を宛先もなくぶちまけているから、暇で暇でしょうがないみたい?実際他にもやることとかやるべきとされていることとかいろいろあるんだけど、これは最初に決めた約束だから(...まぁちょっとズルしてるけどね)、今やめるのもちょっとなぁ。何の役に立つことでもないけれど、意味のないことでも続けようと思ったの。元々意味のないことばかりやってるけどさ。
「自分、どこかでなんとかなると思ってるんじゃ...?」と考えると恐ろしくなった。そんな楽天家なはずはない、でももしかしたら本質はそうなのでは?と。なんとかなるわけないだろとツッコむ自分と、どうにもならなかったらそりゃあ仕方ないと諦める自分。ポジティブシンキングなんかさせまいと、楽天家の杭を打つ怠惰諸君。私は決して前向きに、晴れやかに、現行動をとっているわけではない。
世の中では、様々な非現実に擬似を求める。仮想世界にリアリティを求める。2次元のキャラクターにバックグラウンドを感じ、紡がれていない物語や営みの生々しさを感じる。本物じゃないものをより本物に近づけ、境界を曖昧にしていく。文芸、文化、人間の意識に興味がある私は、それらを是として眺めている。漫画もアニメも好きだし、VRなどのテックの部分にも心惹かれる。けれどもそれとは別に、私には“非現実に居たい”理由がある。
私は、非現実の“現実じゃない”その一点に憧れている。想像や幻想で“補わなければならない”部分を持つそれが、“補われていない”姿が理想的だと思う。その世界に生きたい。具体的には、食事をしなくても排泄しなくても全てが静止していても、“退場”さえしなければそこに居続けられる世界。登場人物に感情移入すれば「この人も普通の人間だからストーリーには出てこなくても食事くらいしてるでしょ」と思うのは確かにその通り。“鑑賞”には必要な感覚で、それが想像で“補っている”ということ。現実に生きる私はもちろんそれを愉しむし好きなこと だ。しかしもし、選べるとしたら、不可能を承知で妄想を語るとしたら。付加がない、非現実そのものが私の居たい世界だ。処々の“人間らしい”部分や、“現実を生きるのに必要”なのに描かれていないこと、それらを排除した、例えば絵画の一面のような。鑑賞や想像によって補完されない(その行為や文化は正しいと思っているけれど)、そこに描かれているという事実だけで存在が確立した、とてもシンプルな世界に、この現実より惹かれている。この感情に対して、悲しい虚しいと思うのも、“こちら側”の想像によるものだ。“ない”世界では何もかもがない。今語った駄文も、この意識さえもね。