こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

大きくなったら何になる

年齢なんてどうでもと言いながら気にするし、「大丈夫かな?」なんて誰かに許しを乞うてしまうし、本当に必要なものが見分けられないのかただの怖がりなのか、やっぱり人に囲まれて、社会の中で生きているんだなぁとため息が出る。本当に独りなら、それらは実際にどうでもよくなるし、むしろ気が楽になるはずなのに、私は「これだ!これしかない!」とは言えないでいる。

あらゆるバイアスからできる限り解放されたいと願っていても、まだまだ自分を包む繭や翳されたフィルター等に混じる毒に気づいてすらいない。やっと気づいてもなかなか手放せない。自分自身を楽にさせてあげることは、甘ちゃんな私は常々やっているような気もするけれど、いろいろと条件つけて縛っているのもまた、自分自身なわけで。

ひとには「挑戦に早すぎるも遅すぎるもない」「何歳でも思うままにやっていい」なんて言うくせに、自分は年齢を言い訳にしていることがたくさんある。現実的に報われぬまま終わることも多いだろう。やらない後悔よりやる後悔というが、どんなものでも後悔そのものが怖いのだ。怖さに飲まれて、現実に委ね、怠惰に負ける。奇跡的に報われる(結果はどうあれ自分の感情として満足する)そういう一握りの一粒に自分がなれると、思い込める強さも自信もない、そういう部分はいつもスッカラカンだ。

―“かわいい女の子”は永遠にそのままではいられず、“きれいなお姉さん”化や“美しいお母さん”化を求められる。“かわいらしいおばあさん”になってから亡くなることも望まれるが、残念なことにそこまでいけない場合もある。

私は最初から何も踏襲できていないが、この枠の中に嵌っている存在のひとりだったと思う。枠から外れることは違和感を覚えるということ。“女の子”を売りにしていた過去もあるからこそ、その終わりを思い知らされている。「もう女の子じゃないね」と言われた日に、“麗しい女の人”にもなれていないしこの先“素晴らしい人間”にもなれそうもない自分に出会って、じゃあ私は一体何なのだと思った。現実逃避で恐縮だが、何か説明できなくなるモノになるくらいなら、ずっと無知な“女の子”として認識されたままでいたかった。

とはいえ、時間は巻き戻せないし、私にも咀嚼や妥協や納得のスキルは多少なりともあるのだ。性別や年齢やその他のカテゴリー分けは好きじゃないし、抗うこともある。今は“そういう種類の人間”として立ち位置を仮定している。

いつまでも同じところに居られないのは、歳を取るからだ。時間が進んで、年月が経つからだ。例え変わらない努力をしたとしても、全く同じは在り得ない。ならば“良い変化”にしようと意気込んでも、今度は自身の変化についていけない。

「大人になれ」と言われても、それが何を表しているのは正確にはわからないし、「かわいいままで」と言われても、かわいくなくなるのが自然の摂理なら無茶言わないでと思う。他人の言葉に耳を傾けず、あくまで自分が思う“こうありたい自分”を実現できる世界なんてあるのだろうか。自身に対するバイアスを外して、真に望むことに気づき、それを叶えることができるのか。今世はなかなか難しそうだね。社会の中にいて、人の目を気にしないことも、実力不足を覆すことも、そう簡単なことじゃないから。

 

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