委ねるもの
「お前何様」的に言えば、私の人生や感情や感覚をひっくり返すような、180度転換するような存在はいない。“いない”と思っているのは望んでいるということだろうか。何かに、今の私を覆して欲しいと思っているのかも。地面にこびり付くように動かない怠惰な私の、目をこじ開けて飛び上がらせる存在。どこかにあるのかしら。
「自らが最弱」的に言えば、世の中には衝撃も魅惑も感動も溢れているのに、感化されない私は鈍感の極みなのかもしれない。究極の存在や卓越した力を前にしても、圧を受けられるような芯がなくて、スカスカの網みたいに透過してしまう。敏感にキャッチするには、磨かれた意識やちょっとしたテクニックがいる。
推しを見つけると、少し生に前向きになった、という言葉を読んだ。自分の人生は相変わらず冴えないままだけれども、心持ちとして明日も生きようと思えるのだという。ふむ。出会いは、やっぱり奇跡だね。誰しも人生にひとつはそういう存在が見つかる、と断定的に言われるのは、ちょっと違うと思うけど。
自分のために生きるというのは難しい。自身を無視できないから。ここまで内向きな意識で自分語りに終始していても、自分の命、自分の未来さえ、責任が重い。どこまでもずっとついてくる自分自身に、鬱陶しさを感じても振り払えないから、そんな自分のために、と心から思える自信がない。まして誰かのために生きるなんて、より重たいのに、それを恨めしく思う時もある。誰かのために なのか、誰かのせいで なのか、誰かのおかげで なのか、ニュアンスは違うけれど他者を自分の人生に絡めようとしているのは同じだ。自分じゃない誰かの生が自分の生の糧になるということは、万人の享受ではないけれど、少しいいなと思った。
明確に掲げられて、早めに深度を強めて、“夢中”になる姿は美しく感じる。成果や過程ですらない、ただ存在しているという状態でも、周りから見て気づかれなくても、それによって人生左右されている様を、憧れの目線で見ている。そういうのは偶然、唐突に出会ってぶつかり合うもの。自分で掴みに行かなければならないの?方角もわからない、ただ闇雲に動いてたまたま手に触れたものを選ぶのか、しかしそれもきっと「これだ」とは思えない。ピンッみたいなものが来なければ。
努力して何かを成し得た人で、才能と言われるのを嫌がる人はいるよね。才能の肯定は努力の否定ではないと思うのだけど。嫌味や皮肉を言われたり、かけひきされたりしたことのある人は、ほぼ純粋な褒め言葉でも傷ついてしまうのかな。多くの人が、イチから、もしくはゼロから、またはマイナスから始めて、努力して人生を積み重ねている。そこに、やっぱり才能はあると思うんだよ、何かしらの。それは生業そのものとか特別な技術に対してだけじゃない。好きの対象を発見する、継続することや忍耐、熱意、やる気、自分で自分をコントロールすること、全部才能だ。目的のためなら当然とか、人間として普通、と言われることも、ないものにとっては才なんだよ。後に得られる日が来るとしても。今はないものを数えて、感傷的になったりするからよくわかる。誰かはわかるかな、この意味が。