こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

どうしてもが行方不明

欲を少しずつ失っている気がする。生きるも生きないも、どうしてもという理由がないのは同じだ。条件が揃えば気が変わるかもしれない。妥協や消去法が別に悪いことだとは思っていない。ただこうしたいと願うこと、こうだったらいいなと他力本願でも、思っているだけまだ“意欲”と言えるのかもしれない。

“望まずともそこに在ること”に慣れてしまったら、それを欲しいと思い始めるのは難しい。在れば不必要に感じるし、無ければ必要に思えてくる。そのものに意義があるのではなく、こちらの考え方次第だ。そこは豊かに、冷静に、判断しなければならない。とはいえ、私はきっと“恵まれてばかり”の人生だから、当たり前のようにあるいくつかを欲しいとは思えなくなっている。既に手にしているものも含めて、求めることで抗うよりも、諦めることで穏やかに終わる、その方がおそらく良い と思い込んでいる。

意欲を出さないと、何かを求めないと、高みじゃなくても劇的じゃなくても叶えたい望みがないと、この世は生きにくい。ただでさえ何の役にも立たないのに、自己研鑽をしないことで周りにもっと迷惑をかけるよう。「自分がいなくなっても誰も困らない」っていう人がいるけど長い目で見れば誰だってそう。別にその人に限らない。けれども黙って息を殺して生き続けて隔絶を目指すより、最期またはその前後の方が確実に人の手を煩わすじゃない。だから、「いなくなる」その時は、実は誰かを困らせてると思うんだよね。全くは無理でもできる限り人に迷惑かけたくない、それでも人の世話がないと生きていけないから、せめて意欲的に能動的に生きてないと、なんだか申し訳ない。でも、できない。「むしろ誰かを困らせたくて手を焼かせたくて生き続けてるのかな」と試しに開き直ってみても、高飛車な何様は違和感しかない。

自分でも要らぬ癖だと思うけれど、「これ欲しいな~」とか「あれしたいな~」とか思いついても、少し考えて「まぁ無いからといって死ぬわけじゃなし」とか「手に入れたところで私はいつか死ぬし、wasteかな」と閃きを打ち切る。「良い物食べてもどうせ排泄されるだけだし」とか「私じゃなくてもその世界は成立するし」とか。全てに潔癖にそれなわけではないから、今の感情に任せて美味しいもの食べるとか唐突に歌うとかこの先必要な生活用品買うとかはするけど。「消えたがってるのに明日のご飯は買うんだ(笑)」って言われたこともあるけど、それって本当に矛盾かしら?消えたいは本当、ご飯は食欲という本能と、自分を世話している飼育員のような感覚。それにほら、餓死は辛そうじゃん、苦しいのも痛いのも嫌だし、それを回避する、ただそれだけ。そうやって目先の満足だけで行動することももちろんあり得る。その合間に時々、単純な欲望と現実的な反論を繰り返している。望みにはリスクもエネルギーもかかる。「望む、がんばる」という気持ちを多少否定することで、怠惰を守っているところがある。

 

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