こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

残酷と贖罪と

連日、人間てやつは残酷だなと思う。自分もまた、残酷だなと思うようにつくられている人間の一部だ。面倒だな。何も気にならないくらい鈍感なら、緊張することも心痛することもないのに。想像を超えてくるような人を知ると、レベルは違えど私も同じような“残酷さ”を抱いている、と思うと吐き気がする。

明らかな悪事に対して、若さや未熟さや環境の悪さはどこまで言い訳として通用するのだろうか。未熟だから人をころしていいかっていうと、皆よくないって言うだろう。そこまでの極論を出さないと思考停止したままの人もいる。人間はひとりの中にいろんな顔があって、他者と共感できる面や全く独りよがりの面がある。どんな激情も、共感があるから増長されるのかもしれないし、独りの世界で生まれたから膨れ上がるのかもしれない。子供の頃から「相手の立場に立って考えましょう」と教えられているから、なんとか想像して仮定して考えてみるけど、どうしても欠片も理解できない思考はあるのだ。もし、知識が増えてとか、時が経ってとかで、欠片くらいは理解できるようになったら、私はそうなった自分に多少慄くだろう。わかる喜びと、自分も“そっち側”(の面もあるん)だということに気づいてしまって。

よく、作品とその制作者のプライベートの関係性を議論されるよね。不祥事を起こした人の作ったものなんて見たくないって言う人がいたり、作品の価値と作者本人の言動は別物だって言う人がいたり。私個人としては一概にこうとは言えなくて、ケースバイケースだと思うなぁ。もちろん断然個人の価値観や好みを踏まえての考えね。音が美しいと思った、色が綺麗だと思った、作者の生き様によってそれが汚されると思うような事態になった。それでも、美しい、綺麗だ、かわいい、楽しいという“想い”の流動は止められない。だからとても傷つく。ただ純粋な気持ちよさを求めているのに、罪の顔がチラつくのは残念としか言い様がない。気に入って手にとったそれが、そういう精神、そういう考え方、そういう人間性を土台にしてできたものだと気づかされたときの、失望感。しかしできることなら、生み出されたものと生み出した人は別々に考えたい。血肉注がれて育てられた作品とそれを生んだ作者、どっちも大好きになることはあるだろう。けれど片方の印象が変わったからといって、もう片方をも否定する気には、そうあっさりとはなれないのだ私は。むしろ苦しい好きが続くだろう。作品は、この世に生み出された時点で、それは独立した価値だと思う。思いたい。そしてさらに言えば、人間性による過ちを作品で償おうとしてほしくない。「私、悪いことしたけど、こんなえぇもん作ってますよーだから許してくださいな」的な。生き様の罪は生き様で贖ってほしい。たとえ制作が生業だとしても、作品を己の株上げに利用するようなやり方は見たくない。作って世に出した時点で巣立ってる。今度はこれから触れた人たちの中で育つんだよ。だからそのものに価値がある。自分が好きなものならなおさらそう思っちゃうね。

いつでも残酷になれるんだきっと私も。そしてその深さも、初めのうちは自分でコントロールできる。もし、制御不能になったら、その時はどうしたらいいんだろう。正義を振り翳した残酷さなら、極々身近にいるような気がして。怖くなるけど、たとえ吐いてでも、この不快さを忘れないでいたい。

 

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