こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(更新停滞中。)

支える人間

前回の話と似たようなことだと思うのだけど。母と“役立つ”という言葉について話した。ある人の論評で、作品の中に散りばめられた“(人の)役に立つ”という言葉が、一部の人にはプレッシャーに感じられるのでは、と書かれていた。私はわりとその意見に賛同し、母は嫌味だと、否定的に疑問視していた。

その作品の内容についてはさておき、まだ終わりの見えていない進行中の作品に対して批評するのは、皮肉を挟みたい側面と、今後の展開を期待したい側面とがあると思う。見る側の万人に受け入れられる作品など恐らくない。もし思い通りになっても、例え意表を突かれても、気にかけているから、全面拒否はしないのだと思う。その中で細かい所に“噛み付く”のは、揚げ足取りと言われても仕方がないが、そういう“受け取り方”のひとつだと、嫌味だけどそういう“伝え方の手法”だと、私は納得する。母は、せっかく楽しんでいるのに、魅力をマイナス面のように書かれて少々不服、らしい。世の中、仮想でも完璧に整い続けるものはないのだから、変化している最中をあんな風に突っつくなんてイジワルだと。それは私も一理あるとは思う、でも途中だからこそ、快く感じた部分も挙げて、今後を期待すると締めてあるのは、その人の言い分の無視しちゃいけない所だと思うのだけど。受け取る側は、時に謙遜し、時に上から目線になる、そうやって感情を揺り動かすのが、作品なのではと考える。

で、だらだら書いているが、本題はそこではない。その“役に立つ”という言葉の多用にプレッシャーを感じる一部の人間の中に、実は私も含まれてるということだ。ある事を、その道を極めていない人間が“何の役にも立たないこと”だと言った。それ自体は自然な出来事だと捉えられたが、その後何度も「人の役に立ちたい」という言葉が、前向きな意識や人間性、向上心の現れとしてで出来たり、「そのままじゃ役に立たないが工夫すれば役に立つ」など“役に立つ”ことは有益だとして表現される。それは確かにその通り、その通りなんだけど、なんか違和感。わかる。それが間違いとか否定したいわけじゃない、実に素晴らしいことだと思うけれども、なんか引っかかる。

恐らくアンチテーゼ、もしくは成長への壁や糧として後に出てくるらしい「積極的に役に立とうとしなくても人を幸せにしているということもある」という言葉で、やっと腑に落ちた。そうか、これ“も”、表出されるべきことだ、と。

“人の役に立ちたい”“誰かの役に立とう”と夢を追いかける人を、尊敬の眼差しで見ていた。でも共感はできなかった。“誰かの役に立ちたい”と思ったことがないからだ。“役に立つことは素晴らしい・有益だ”“自分にとって役に立った、助かったと思うこともあるでしょう、それは誰か他人の力だよ”十分思っているし、感謝の気持ちもある。けれど。役に立つから素晴らしいの?役に立たないのはダメなの?役に立つものしか存在しちゃいけないの?誰かの役に立ちたいと思わなきゃ存在できないの?一時期「生産性」という言葉にも揺らいだ心情が、またぶん回されてる気がしてる。私はひねくれ者なので、“役に立たなくても存在しているだけでいい”とはさすがに嘘臭いなと思ったりもするが、“役に立とうと強く意識して行動してなくてもいつの間にかありがたいことになってた”ということもある、と聞いて少しほっとしたのだ。そうか、それだけじゃないんだ、よかった。

「役に立ちたいと思ったことない」と私が言うと、母は大層驚いていたけれど、そういう考えの人もいるだろうね、というか今はそういう人の方が多いかもよ?なんて否定も賛同もしなかった。多いかどうかはわからないけど、辛い経験を糧に「誰かの役に立ちたくて...」と向上心溢れる人を見ると、私は正直その輝きが羨ましかったよ。子供の頃から「なんでそんな風に清い心で前向きなことを思いつくんだろう」って疑問だったしね。

今回の違和感はマイノリティで、そこにも配慮をなんて言うのは、多様性を振り翳した傍若無人かもしれない。しかし影響力を考えれば、普遍的なセオリーで個人の感情や状況を揺さぶることを、少しだけ考えてみてほしいとも思う。作品も、見る側の人生も、このまま続けば成長もするし改悪もあるかもしれないし、変化するもの。これからの展開に、今少しだけついた傷も癒える場面が来ますように。

 

役に立つ 役に立たない 存在理由 生産性Amazonで検索