人はどこまで選ばれた自覚があるの?
私の人生を聞いて、「選ばれてきた人はいいなぁ」なんて言う人にはこう答える。「選ばれてきてないよ。選んできただけ。」物事に対して、人に対して、私がその道を選んだ。ずっと、そう思う。自慢でも、誇りでもないよ。そうせざるを得ないことだってざらにあるし。物事から、人から、選ばれる側だなんて思ってないんだよ。たっくさん種類ある中から、自分を見つけて意識が注がれてピックアップされてきたなんて、そんな自信あるわけないでしょ。
私もね、人に対しては「選ばれていいなぁ」と思うこともある。そう声を掛けると「選ばれるようにがんばってきたから」ってはにかむ人もいるし、「私が選ばれてあげたの」って自信満々の人もいる。どちらにしても、自分が他を差し置いて、もしくは絶対的に、選ばれる自信があったのだなぁと思う。
当たれば喜ぶし、外れれば落ち込む、自信の有無はともかくとして、ずっと繰り返すもの。選ばれなかったと嘆く人は、それはもう仕方がない、たまたま・タイミング・ご縁だからと言われれば、少しは気が楽になるだろう。それでいいと思う。それでいくと選ばれた人も理由は同じことになっちゃうんだけど。
「選ばれたんだ」って、自信を持った方がいいと言われたりもするんだけどね。選んだであろう人に失礼になる場合もあるらしい。あとさっきみたいに「自分が選んだ」っていうと、何を偉そうにって誤解されることも、うん、ままあるとは思う。人の意識が自分に向いたとき、そう思う理由を教えてって考えちゃうな。「君を選んだ」って、他にいっぱい人間はいるのにどうして、他にいろんな“君”がいるのにどうして。私はその“要求”にはそぐわないかもしれないから、私の方から自分の行く末を選ぶね。そんな風に。
私は人を好きになったら、すぐ相手に伝えちゃう。それで終わり、満足。その人の脳に届けばいいやって思ってる。恋人になるということを、「相手に選ばれたんだ」と解釈するのは、ちょっと違和感がある。好きな人から「選ばれなかった」と嘆く人にとっては、腹立たしい言い方かもしれない。私は好きな人としてその人を選んだけれど、相手が私を選んだということについては、いささか疑問がある。「私を選ぶ理由はなんでしょう?」私は人を選び告白することを選び恋人になる道を選んだから今がある(大変ありがたいことだけども)、まるで相手の気持ちは関係ないとでも言うように。単なるわがままかな。「君は選ばれなかったことがないから選ばれない気持ちがわからない」と言われたこともある。確かに私が未経験のことだったらわからないだろうなぁ。でもその人の思う「選ばれない」に該当する状況はあったと思うから、それはそれで、ちゃんと悲しいよ。泣いて泣いて悲しいけれど、「やっぱり私は“そっち側”じゃないんだ」と思えてくるし、そうやって悲しむ自分をいつかどこかで“選んだ”結果こうなったのかも、と考え出す。最初から言ってるけど、決して自分の選択に自信持ってるわけじゃないよ。自信なんてむしろ無さ過ぎるぐらいだから。愛される、求められると思えないんだよ、どうしても。だけど自由は与えられている。誰かのお眼鏡に適わなくても、息をすることぐらい選んだっていいでしょ?って感じ。