こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

望みが欲しいという望み

「なんでもやりたいことやっていいよ」はいつしか「やりたいことなんでもいいからやってみれば?」になり「やりたいことなんでもいいからやりなさい」になり「(したいしたくない関係なく)なんでもいいからやりなさい」になった。生きていて本当の「なんでも」なんて無いのだ。「何もやりたくない」「何もしない」はそもそも選択肢として並んでいない。いつも、いつも、そうだ。

今ある幸福を雑に扱うと咎められる。贅沢も、努力の結果ではなく偶然の産物であると、嫉まれる。積極的であること、行動的であること、ポジティブ、できる限り良い影響力、内面的な豊かさも人に認知されてこそ...、そういうものが美徳、“で、あるべき”とされる社会にいて、その方向に視線すら向いてない自分は、もはや“磨けない石”ということだろうか。

「no 〇〇, no life」というような、必死なものはまるで持ち合わせていない。強いて言えば、肉体を維持する最低限、心は、天秤にかけられるような“〇〇”が見当たらない。好きなものはいろいろあるけれど、そのどれもが“該当しない”と感じている。生きてきて、「譲れない」と思うものに出会ったこともあるのだろう。けれど、譲らなかったという結果や譲っても死にはしなかったという経験が積み重なって、そういう意地みたいなものはだんだんと薄くなっていった。

私が羨ましいと感じることがあるならば、それは“生きていく気で、生きている”人に対してだ。「仕方なく」と口にしながらでも、「明日を生きていたい」と望んで実行している人。自分みたいに“なんとなく”惰性で今、というのは、“生きていく気”という点で少々謎なのだ。「明日が楽しみ」とか「長生きしたい」とかになると、いろいろ通り越してもう羨ましいではなくなるんだけども。それが“奇跡”だとしても、望んで手に入った明日を“感じ取れる”ということは、その行程すべてにおいて、いいね、と思う。

「誰かの役に立ちたい」という言葉も、昔から眩しすぎて見ていられない。誰かの助けになりたい、世の中に貢献したいって、素晴らしい!高尚!って嫌味なく言ってうざい太鼓持ちってくらい過剰反応なんだけど。ひっそりと純粋な願いでも、ハッタリ的な発言だとしても、「役に立った」というほんのり抱く誇りでも、どれも眩しいと思うよ。私は正直、顧みて一度も、思ったことがない。

お医者さんが命を救う、アイドルが人を笑顔にする、アーティストが癒しを届ける、多くの人が社会に貢献する、生まれたての赤ちゃんだって“子は宝”として世の中に必要とされている。意志は関係なく自然とそうなる出来事もあれば、結果が伴わないこともあるだろう。それでも、「誰かの役に立ちたい」と“望むこと”自体が、私には、眩しく触れられぬ別世界のようだ。あくまで自身が満たされるための行動だと、表明されるほうがまだ共感できる。

ないものねだりが尽きないな。「私は何者か」と悩むよりは、就活どうしようとか、やりたいことがあるけどなかなか上手くいかなくて...とかで悩みたい。生死議論よりは、効率のいい練習とか成果を出す過程とかを紹介し合ったり、具体性と単純化の間で考えたり話したりしたい。少しだけ期待しても、今ここにはないものばかり。

やりたいことが見つからないというと、好きなことをとりあえずやってみたら?と言われて、ですぐにそれではお金を稼げない・生きていけないと言われて、じゃあ好きなことはダメor好きを活かせる才か術がいるよねっていうと、才や術にかけるお金も時間もないよと言われて、じゃあもう生きていけないよね、生きていきませんっていうと、それはダメ生きなさい、生きるべき、生きたいはずだって言われて。えっと、何だっけ?状態。(笑)この右往左往すらしていない姿を、停滞と名付けると、途端にそれが善か悪かのジャッジが顔を出す。結局誰にとっても、どうでもいいのに。

  

何もしない no 〇〇, no life 明日を生きていたい 誰かの役に立ちたい ないものばかり をAmazonで検索