こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在、時遡って更新中。)

教えて“あげる”って何さ

「知っていることを人に教えてあげて」と言われるのが苦手な子供だった。今でも、人にものを教えるということに苦手意識がある。「早く終わったら隣の人を手伝ってあげて」「人に教えると自分もよく理解できるからね」私に何を期待しているのやら、と一度目を逸らして、おずおずと視線の先を合わせ“説明”を始める、気弱な子供だった。「知っている」「わかっている」と自分から言うのはいつも烏滸がましい気持ちだ。満点のテストでも解いている最中に手応えなど感じたことがなかった。いつも自分の“正解”に自信がない。人生はその感覚を見事に踏襲していると思う。

「君が正しい」と言われても、「すごい」と褒められても、それはそう言ってくれてるその人の感覚であって、私の感覚ではない。“私の、ではない”というのが、少しこだわりすぎなくらいだと、自分でも気付いている。すごいとか偉いというのは曖昧な指標で気持ちの動きだから、個人でバラつきがあって当然だろう。しかし、例えば「AはAである」という公然の事実に対して、“私もあなたも同じ認識だよね”っていうのは確かにその通り、なのだけど...。私が「AはAである」と思っている。他人が「AはAである」と思っている。それぞれが今ここにある事象。...そういう感覚なんだ。なんだか対象への向き合い方が微妙に違う気がするのだ。

自信のなさは人に伝わる。誰かに何かを教えるのに不安がっていると相手も不安になってくる。私はその“緊張感”に耐えられない。相手がおおらかで「かまわない」と言っても、なんとかやり終えて感謝や賞賛を貰えても貰えなくても、すぐには安心がやってこない。責任がプレッシャー、達成感を得難いということもあるけれど、その時の“空気”そのものが怖いのだ。

私が知らないことはまだまだこの世にたくさんある。理解できないことも、共感できないことも。だから“知らない”“わからない”という人に「私が教えてあげる」という気持ちにはならないのだ。質問されて黙っているわけではないけれど、私の気持ちや知識に期待しないでほしいと願っている。誉め言葉にさえ傷つくのは、健全じゃないとわかっているけれど、恥や誤りがやっぱり怖いんだと思う。

「どうしてそんなに自信がないの?」と呆れ顔で言われてきた。どうしてと言われても...もはや自信の無さに物凄く自信がある、自信過剰なのだ。「間違えちゃった?ごめんねー」と明るく切り抜けるひょうきん者でもなければ、自分の答えに責任を持つ覚悟もない。....弱いなー。でもこの感覚を自ら変える努力を特にしてこなかったのだから仕方がない。根拠のない自信で、周りも自身もぶん回して引っ掻き回して、それでも堂々と生きてる人、憧れはしないけど感心はする。すごいなぁえらいなぁ(えらいこっちゃの意味でね)と思う。

正解がひとつの問題で、私の回答が〇だとしても、参照されたくない。誰か別の人に訊いてみて~って思う。確実に〇だと言われても、みんなと一致して〇だとしても、「それはよかったね~」って感じで、「私が先に正解してたのに~」みたいな、悔しいとか別に思わない。「よかった、合ってた」ってひとりでほっとするから、そっとしておいてほしい。うーん、競争向いてないね。

 

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