こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。

完全なるひとつになれない私たち

また人間観察のちの考察。というか疑問。Twitterにもぼちぼち呟いたりして、瞬間の感情と思案を記録する。(そのため自ツイート再利用してます。)わからないものや不快なものを“適度に”受け止めたいんだけどね。なかなか上手くできないけれど、最近は強制シャットダウンも覚えつつある。

他人の自由と己の不自由をイコールで結んで荒ぶってる人を見かける。他人の幸せは己の不幸?可能性はゼロではないけど、そうやって直結しちゃう理由はなんだろうって思った。「私はこう思いました」というと「そう思ってるようには見えませんでした」って返すの、何?「こう思ったのでこう書きました」というと「そうは読み取れませんでした」って返すの、答えはそこに出てない?って思う。“読み取れなかった”のはジブンなのに“読み取らせることができなかった”その人が悪いの?正直ほっとけーって感じ。解釈は自由なのに発信は不自由?皆が皆、あなたのための“参考書”書いてるわけじゃないって。画面上のやりとりだとしても、心底うんざりした気持ちになった。求めている回答の方法・内容・言い回しじゃないと、自分の自由を脅かされた気持ちになるのだろうか。いや逆だけどね。あまりにも他人と自分を無責任に結び付けすぎかなって思う。誰も、誰かとカードの裏表ではない。

いちいち揚げ足とる人もちらほらいるなぁ。そして正論な顔してるから、ややこしい。別に誰も貶めるつもりはないんだけれど、嫌いなものを嫌いって言えなくなるのはやだなぁ。「(言葉が届いた人が傷つくから)言う必要ない」と扱われて、“わざわざ(攻撃)”とか言われて、嫌いとか嫌とかの感情表現を抑制されるの、表現とは...自由とは...必要とは...って考え出して固まっちゃう。

なんちゃら警察っていう言い回しが流行って、人間心理としては興味深いけど、正義振りかざして難癖つけるのがただ面白いって流行るのはなんか嫌だな。単純に人生において不快指数が上がるだけだと思う。お互いにね。注意して(したつもりでいて)、いい気持ちのみなら、それは“ただの正義感”ではないと思う。

不愉快に侵食されないように、鈍感になるのも手。そうやって気丈でいられるのも才能なのかなと、偉いなぁと思ったけど、鈍感になりすぎて、その人の美しき鋭さが追いやられてしまうのは悲しいな。混ざり合えないし共存もできない、かといってなかったことにもできない、ゆるくゆるく捉えることで深い傷にならないように、というのは関わりあう両者ともが思ってこそだろうけど。自己防衛一択になるのは、今は仕方ないとしても、何か違うんだよ。

私も結構な面倒くさがりだから、いつでもどこでも慮るとかやってらんねーって感じ。他人と距離を取りすぎるのも、混ぜ込みすぎるのも、もしかしたら同じぐらい不穏かも。どんな相手とも同一になることはないのだから、代わりに想像することをやめないでいたい。

 

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