ええ歳とは
もう何度言われることやら。生産性のあることをしなさい。それがなきゃ、生きてる意味なんて無いってことなんだね。私は何も生み出してはいないし、何も進歩していないし、何も積み上げてはいない。ただなんとなく、日々を経過して、消費して、空気を吸って吐いてしてるだけだ。
善いとか悪いとかじゃない、正しいとか間違いとかでもない、何をして過ごすかやどのように生きるかはただの選択と欲望だ。それでも比較や競争のように当てはめてしまうのは、結局独りきりでは居られない、ああ言えばこう言う問答も不必要とは言い切れないからである。
ええ歳して~とかも言われるようになったが、こっちからしてみたら別に“変わらない”。昔も今も、似たようなことを考えているし、同じようなことを言っている。それに、周りも、さして変化のない視線で、似たようなことを言ってきているのだ。進歩ないなぁと言われたら、そんな私に対して同じようなことを繰り返し言ってきているそっちも、進歩ないなぁという話である。
正直、“年相応”はわかるようでわからない。それなりに“それなり”を考えなさいと言われるが、その程度すらよくわからない。年相応の服装、生活、人間関係、生き様....なんとなく知識を入れているだけで、それを実行に移せているのかどうか....というか、端から実行する気がないのかもしれないけれど。「この年齢ならこれぐらいのこと知っているはず」「年なりに考えられるでしょ」「その年頃の人生ならこの辺まで達成しておかないと」半笑いして怒られちゃう、だけど正直、どの辺よ?それ。
若さを武器として装備している感覚がないまま、その“若葉”な時間を通り過ぎた。同世代、同時期に、若さを使い倒しておかねばと意識して動き回っていた人もいるのだろう。でも私にはその熱意はわからなかった。10歳で最も気の合う(と勝手に思っていた)人は先生だったし、15歳や17歳が貴重だと言われてもそれはどの瞬間も同じでしょ、と思っていた。ハタチの時の恋人の友達に、若さを利用して手に入れた愛だと揶揄されて、「そもそも若さを“使う”ってどういうことぞ...」と他人に初めて殺意のようなものが芽生えた。幼さや未熟さが庇護欲を掻き立てるというのはわからないでもないけど、年齢は記号だし、通し番号振ってく感覚、その考えは今も昔も変わらない。
それだと成長とは言えないのでは、と問われたりするけどホントにそう。成長している感覚はあんまりないの。身体は大きくなって変化もしているよ。でも“よくなっている”とは思えない、思ったことない。むしろここからは衰える一方だと思うし。心もね、ある程度のところから、多少の広がりはあっても成長している、進化しているとは思えなくて。1年1年誕生日を迎えている、着々と年齢を重ねている。それは数値のカウントアップであって終わりまでのカウントダウン。ラベルの数字が変わっただけで、中身は何も変わってない。変わりようがわからない、変化するべき姿が、数字に対応した結果が、わからない。
準えたいとも、追いつきたいとも、本当は思っていないのかもしれない。けれども人並みや、一般社会での普通や、大凡の平均に、興味がないわけでもないのだ。若い時にあれをしとけばよかった~などと、一度も思わないとは約束できない。同い年がやっていることを自分はしていない劣等感、多くの人がしていない経験をしてきたという優越感、どちらもあまり感じないくらいには、私の心は無頓着に近い。それが良くも悪くも、過去と現在を比較すること自体無駄、“年齢に沿った”生き方に該当“できない”、と感じてしまうことに繋がっていくと思うのだ。