to do nothing
ここまでやる気がないのはどうしてだろう。だからと言って、本当にやる気を出したいのかもよくわからない。元々の怠惰がエスカレートしていくことにどんな理由があるのだろうか。
日常において、なるべく“何もしない”を選ぶので、周りから「何かしらはしなさい」と“行動”を促される。何でもいいのだったら、ほぼ毎夜(父の夕食を)料理をしているし、こうしてブログも書いているし、最近はピアノの練習もたまにするし、歌ったり編み物したりスマホゲームもしている。でもきっと、そういうことじゃないんだよね。わかってますけども。料理以外は、やりたくてしているがしなくなっても困らないことばかりだ。究極、料理もしないならしないで何かしらの対応策はある。どうしてもやらなければ、ではないと思う。やれなくなったって、きっと死にゃあしないからね。
とても好きなものがあって、もしそれを失ったとき、「好きなもののないこの世なんて...」とドロップアウトのきっかけを得られるならそれも一つの手だななんて思ったりする。だけど、そこまで心酔するものが現在あるかな....。好きは好きだけど、多くのものからそれを選ぶけど、果たして自分を繋ぎとめるほどのもの(意志)だろうか。
歌うのが好きだ。リアルの自分のものではない状態に感情移入できるから。だけどそれも、身体という楽器は生もの過ぎて、作りも良くなくて、すぐ疲れるし発声すること自体が億劫に感じることが多くなった。歌いたい、でもそれより眠ってたい。とにかく、動く気が失せている。
テレビとか映像作品とか、観たいけど観たくない。面白いもの、馬鹿馬鹿しいもの、感動するもの、心が揺さぶられると、喜楽もありつつ疲労感がすごい。ドラマ、映画、舞台、ストーリーが濃厚なほど、覚悟して観なければ。ただ観たいという欲求をもってしても、後から来るストレスは抑えきれない。刺激を求めているのに、アテられて、もう観たくないと思うときもある(まぁだぶん観るけど)。お笑い番組も、昔より笑えなくなったな。テレビが変わったのか、私が変わったのか、たぶん、両方だろうな。日常生活で大爆笑する機会はほぼ無いため、映像の力を借りようかと思っても、うーん...大爆笑はあまりないね。ちゃんと笑うけど、腹の底からは笑えてないなって感じる。振り切って大笑いしたりテンションが急上昇すると、後々ぐったりしちゃうことがわかっているから、無意識に適当にスルーしているのかもしれない。
「やりたいことや得意なことなど、昔はやれることがいくつもあったのに、今はそれらの継続も、何かに夢中になることも、全然ないんだね」と嘆かれる。ともあれ、私本人にはどうしようもないのだ。その時はやりたくてやっていても、今やりたいかどうかは別だし、得意なことって言っても、自分では得意とも思っていなかった。ただ好きなだけだったとして、その好きは今も続いているとして、無我夢中でないことを責められては、一体これ以上どうしろというのだろう。あの頃を続けていれば....なんて、たらればに何の保証もない。
息しているだけでも体力奪われる現実、他者を意識するだけでも疲労を感じる心、刺激がなくちゃ退化しちゃうだろうけど刺激に晒されてはうんざりする日々。全く忙しく暮らしていないのに、何もしたくないと口癖のように呟く。やる気がなさすぎて、明日を楽しみに思ってた夜なんて今まであったかな?ってくらい、いつの間にか朝だよ。