こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

私を観察

啓発媒体に自分を愛すってよく見るけど、言われてそう簡単にできるもの?自分を大層甘やかしてはいるけれども、自分を大事にしているとか愛してあげているとは思わない。長所を伸ばす、短所も認める、子供にやるようなことをぜひ自分に、と言われて実行して証明できる人が多くいるのかしら。不出来なところ、欠点や愚かな部分をひっくるめて自分だと、受け入れることが第一歩....何の一歩?“良くない”所だと思っているから嫌いなのに。認めようが認めまいが、それはそこにあるのに。大切であることに理由がないように、大切にできないことにも特に理由はないんだよ。それを“まずは”できないと、と人は言う。愛されることより“まずは”愛することから始めないと、と。だから、それが“どういうこと?”レベルなんだけども。

“普通に頑張っている人”を見て、“魅力的な人”に憧れて、羨んで「あんな風になりたいなぁ」とか言って、瞬間昂ぶったりすぐ劣等感に苛まれるのも、なんか違う。勝手に下に見て、自分は恵まれてるとか「あの人よりマシ」とか言い合っちゃって、悪いことばっかり“できる”とか体面的に欠点だらけの人より、あまり人に気づかれない“できない”ばかりの自分の方が“まだいい”なんて、下手くそなマウントとるのも、なんか違う。

心酔して、信じて疑わないの、ちょっといいなって思う。困ることもあるかもだけど、それも糧というか。そうなろうと思ってできるものじゃないと思う。好きだなとか気に入ったとは思うけど、ゾッコンになったことはない。脳内に少しそういう意識があったとしても、それ以外が理性や冷静さを極める。たまに理性もどきが眠って、何もかも信じたくなるフィーバータイムがあるけど、年に1,2回くらい。様々な現実も、他人のことも、自分自身も、信じて疑わないとしたら、見える世界が違うだろうな。

私の感じる世界を、共有したところで何もないだろう。それなのにこういう投稿をしたりぼそっと呟いたりするのはどうしたものか。素ではあるけど素直だと思われないから褒めても暖簾に腕押し、貶すことで得られる快楽も私相手じゃさほどの量だよ。誰とも目が合わないのも心寂しいものだけれど、急に距離詰められるのも遠慮したいね。二面性どころか多面性ある、それを全部見せなきゃとも思わないけど、どれか一面は知ってほしい、みたいな。

年々矛盾が増えていく。白黒つけたい派の私を苦しめる。それでいいとも思う、それは大らかな気持ちなんかじゃなく、諦めに近い。双方(多方)の気持ちがわかるからどちらにも従いたいと考える。身体はひとつしかないのに、頭の中は異なる意見にそれぞれの担当がいる。バラバラに分裂しては融合して揃っては戦って、議論はいつまでも続く。そして最終ジャッジは「どうでもいい」脳内が一瞬静かになる強烈で罪な言葉だ。

 

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