エクスキューズ乱用
言い訳ばかりの毎日だ。特に最近、というわけではない。もうずぅーっとそう。私には何もないんだから、ある人がやってよって思ってる。「やる気を出せ」「持てる能力を存分に発揮しろ」「とにかく行動」「なんでもいいからやってみる」いやいやいやいやだからないんだってば!と何でもかんでもぶん投げたい気分。
素敵に生きるのは諦めた、だから日々それなりで構わない。私の求めるそれなりは、周りをイラつかせるみたいでね、放っておいたら死ぬからと、なかなか放っておいてはくれないの。ほんと、“どうしたいの”が一番困るよね。ないものをどう表せば。悪魔の証明?求めてくる人はないものをないと証明できるのか。
家族に感謝しているよ。守られている一方でとらわれているのも事実。いつまでも自立できていないけれど、自立したくないと駄々こねているわけでもない。したいとかしたくないとか、ないし。せざるを得なくなったら、せざるを得ないんでしょ。恵まれているから、恵まれていない人の気持ちを考えて、恵みを捨てるの?甘えているから、甘えから脱却することがどう正しいの?感覚で生きてるのに理屈っぽいのは、育ちのせいではないと思うのだけど。私をどうしようもできないのに「どうしよう」と悩まれるとこちらこそどうしようだよね。
恋人に1年以上会えていない。でも私、案外平気みたい。今は遠距離でもリモートとかあるもんね、とフォローされたりするけど、画面に映る自分が嫌すぎるから(しかも動画だし)そういうツールには消極的。電話でいい。むしろ手紙でいい。無料通話だと舌痺れるくらい話過ぎて自己嫌悪の繰り返しだし。前から愛情“表現”にはクールな印象があるみたいだが(受けた当人談)、今はさらにドライになったと自分でも思う。昔は風貌からきゃぴきゃぴした妄想されてたけど、年を取ってようやくギャップが埋まってきて、そっけなさが本物になったかしら。「すきすきぶっちゅー」でいる方がかわいいいし、何か発散できそうだけど、絶対疲れて続かないと思うんだよね。一時的に陽キャというか。たとえ思いつきでやる気力はあっても実質的な体力はなし。好きは好きだし嫌いにはならないけど、蛙化現象に近いとは思うね。私“が”好きというサークルに、私“を”好きという要素を置かれると、なんだかムズムズ...???という感じ。
自分の中にある不思議なボーダーライン、いくつかあるの。“no border” is wonderfulみたいな気持ちはあるけど、許せる許せないとか、モヤるモヤらないとか、疲れる疲れないとか、そういう曖昧で極個人的な境目。私ね、赤ちゃんの動画とかエッセイとか好きなんだけど、きゅんと来るのとそうでないのがあるのね。その境目というか条件ってなんなんだろうーって自分で考えても長年わからないまま。嫌悪感のあるものとかは論外だよ。ではなく一見そこまで違いのない、どちらも一般的にかわいい~とされているものでも、同調できるのとできないのがある。その差はなんなんだろうねぇ。SNS見てて、育児マンガとか結婚報告とか素敵な日常とか、「ほんわ~。続きを見ていた~い。」と思うものと「うげぇ...なんかもう嫌だなぁ(リムーブ)」と思うもの、じわじわと現れてくる。大差なく支持されているのを見ると、別に自分がニッチ好みなわけじゃなし、ますますどういうこと~?と思っている。感覚か、勘かな。“なんとなく嫌”とかはもう自分を信じるしかないか。
私のSNSですがさほど活動しておりませぬ。でも存在はしているのだよ。迷ってるね、使い道というか、使い様。自分、何者でもないからさ、宣伝するもの告知するものも無いし。日々のことって言っても、日々すら特筆事項なしって感じだもんなぁ。でもやめないよ。何故かあると安心するからね。口だけになっているのは音声的発信です。やりたいなやろうかな詐欺。