鏡像反芻
似たり寄ったりの自分語りももう20回目。誰宛の手紙というわけでもないけれど、長文になってしまうのはやはり、私のまとめスキル劣性ってことと、ネガティブ&ループの証明ではあるなと。以前、前向きな日記に憧れて、試みたことがある。でも続かなかった~。私には、その前向きという意識の継続さえ、苦手分野になってしまう。「イキテルダケデマルモウケ」を素直に受け取れるような人間でいたかったな。同じ言葉を他人にはかけてあげられても、自分に対しては言えない、「ンナワケアルカヨ」って思っちゃう。
自分の思考を移すように綴ることと、誰かに届けようと言葉を組み立てることは、やり方が全く違っていて、そのどっちもできるようになりたいのだけど、どっちも“できている”と実感するまで到達するのは難しい。思考のトレースだってあっちゃこっちゃ行くし、忙しい。誰か対象を見つけるなら、それこそ気を遣うところが多くて、すぐに手一杯な感じになる。出力は存在確認であり伝達手段なのだから、できる限り続けたい、と今現在は奮っている。つもり。
間合いや以心伝心、祈りやテレパシーにも興味はあるが、大切なことはきちんと言葉で伝えるべき、とは思っている。だけどそれはなんでもかんでも伝えるということではないし、伝えない選択の自由もある。そして、思っていることがない(思っていない)から伝えることがない(伝えない)ということも有り得る。思っているだけで伝えたいわけじゃないから(伝わって欲しくないから)伝えないということも。結局、可能な限り、しかできないし、する気がないのである。
“私を知ってほしい”と“私をわからないで欲しい”は、この身に同居しだしてしばらくになる。自分の思考や嗜好をひけらかしたとて、ひとにはほとんど注目はされないし、自分だけのただの鏡像反芻である。ひとは案外他人のことなど気に留めていないし、留められない人種もいる、私のように。そうやって内側ばかり見ているくせに認知を欲しがる→叶わないは自業自得ともいえる。また、自分を開いた気になって勝手に調節して出したそれをとやかく言われるのも、気に入らないんだろう。時に、素朴な疑問や素直な感想にさえも、“私をわかったつもりになるな”と警告するように、懐疑心丸出しの顔を見せてしまったりする。理解して欲しいと“欲求”はあれど、理解されない“快感”も識っている。
共感は、“ただの共感”ならそんなに求めてないように思う。“同意”レベルならどっちでもいいと思う。問題が深刻なほど、共感や同調にも深刻さを求める節がある。なんなら“全く共感が得られないという美学”も在ると聞いて、なるほどなぁと思った。曖昧さにマイナスを感じるときほど、極論は気が楽になる。逃げといえば逃げだよな。ただ、必要としてないというのは、そのまんまの意味で、存在を否定しているわけではないよ。“ただの共感”も“大いなる共感”も“ちょっとした反感”も、在るなら在るで、うん、いいんじゃない?それをどう扱うかはそれぞれで、丁重なのか乱雑なのか適当なのかバラバラ、の中に私もあの人もどの人もいるよ、って話。
自分はこう思う!こうする!こうしたい!と言うばかりで、一向にHow about you?が出てこないこのブログに、読者機能は何の意味も持たないばかりか、存在自体「なにこれ....」感が自分でもあるんだけど、これはもう排泄だと思って、限りある時間は必要経費だと信じて、これからもやっていきたい所存デス。お目汚しとわかりつつも、なんとか自浄を目指していきたいものです。
余談;上で言った鏡像反芻は存在しない四字熟語のようで...自問自答を延々と繰り返しているみたいなニュアンスです...あしからず。