call me WHAT
どうなってほしいわけ?と訊くわりには、それに応える気はないというわがまま。放っておいたら放られているままだから、最期を与えないために手放せない、そういう人のサガを利用して生き存えている。正しくないとわかっていても平静を装える。申し訳なさの中で人のために生きることも、自己満足だけ求めて自分のために生きることも、できていない。
人生詰んだ、と谷底に落ちていった人に差し伸べられる手は、あって欲しいしあると思う。では、同じ平面で寝っ転がってる人には?ちょっと躓いただけだと、寝転んで休んでいるだけだと、本人もそう言っているし...と、スルーされるのでは?こちらが求めてもいなければ、向こうから差し伸べられる手も声もない。苦しんでそれを表明できた者にしか、光は届かない。
本人の意志のみでは、望んだエンディングは得られないと思う。人がそうさせない場合もあるし、運命というものがあるならば、そういう流れにならなかったという場合もある。強く望めば動くものがあるとして、強く望んだことがない人間は、差し出されたもの全てにYesと捉えられているのだろうか。
私の好きなものが私に好かれていようがそうではなかろうが、それ自体の価値や存在は変わらないでしょう。私の大切なものが本当に“大切なもの”かどうかはわからないでしょう。私のやる気と、周りが私に出して欲しいやる気は、イコールではないでしょう。私が薄情なことを言ったとき、「それ言うと皆が悲しむよ」って言われるのホント苦手なの。「あなたが死んだら誰々が悲しむよ」とか。だからといって私の思いが丸々消去されるわけではないのに。
何者でもない自分だから、何者かになりたいのかな。何の影響力も権力もない自分だから、何らかの力を手に入れたいのかな。自分には何もないということを知っているから、知らなければよかったと思う。何も知らなくて、考えなくて、寝て目覚めて生きていることに感謝している方が、なんだか幸せそうに思えるから。実情なんてどうでもいい。だって本当に何も知らない人なんてきっといないから。在り得ないことばかり、夢見るのが常だから。
幸せや愛や夢、よくわからないことを、口に出すのは畏れ多い。言っておいて何それって感じ。何をもって愛するというの。「キミがそう思うやつでいいんじゃない」と言い逃げる。誰かのためにって思わないなら愛がなくて冷たい?そういうもんならそうかもねぇ。幸せって物質の名前?状態の名前?感情の名前?突っ込まずに深く考えずに口に出せる人が、ほら、まさしく幸せそうじゃない。
私は自己決定を人に示すことに慣れていない。柔軟といえば聞こえはいいけれど、ただの優柔不断か両取り精神、もしくはどうでもいいという無責任だ。私は私、それ以外の何でもないけど、私は妖精だと誰かが言えばそうなんじゃん?って思う。私はロボットだと言えばそうかもねぇと思う。私は優しい人間だと言えば、そう思うか否か%が違うんだろうねぇととりあえずは受け入れるよ。自分自身をどう思うかはあまり重要視されてこなかった。私は“私”で構成されているけど、“私”像を表しているのは他人の目と意識だ。私はこんなに疑り深いのに“騙されやすそう”と言われたことがあるが、それはたぶん自身のこともあまり信じていなくて、且つ「君は〇〇だ」と言われればそうかもしれませんね(あなたにそう見えているのなら)などと言い、一度は受け取ってしまうから、ということだろう。
何も自分のことを追い込んでなんていないよ。私は無害?そして無益かな。それでもここの酸素を吸い、水を飲んで、電気を使い、これを書いている。必要事項?それとも除外してOKな存在?それを誰が決めるのだろうね。