嫌悪というナルシズム
毎日欠かさずネガティブなので、これは才能といえるかも、なんて、そんな付け焼刃のポジティブは存在しないから、とかなんとか、また堂々巡りを繰り返している。もし、肉体とは別に“私”というものがあるのなら、もっとちゃんと生きたかったな、って、死んだあとに思うような気がする。
終わりの見えない自問自答は、自己分析というほど、自分を広範囲に詳細に見れてはいないと思う。私の中で何人もの私が、この肉体を今後どう生かしていくのかについて、あれやこれやと議論している感じ。「で、こいつ結局どうすんだよ?」と問い、「どうしようもないじゃないの~」と答える。不毛。
「自分のことが大嫌いだ」という“自己愛”に無自覚なフリして塗れているところがほんとク〇だな、と思う自分、について考える。自分ひとりで、自分自身に注目し、自分のことだけを考え、言葉ヅラは好きだろうが嫌いだろうが、結構なナルシズムを感じるし、その時、そこには全くといっていいほど、他に対する愛は感じられないの。嫌い、醜い、ク〇、ってベクトルを沢山集めても、結局、キミ(自分)が見ているのは自分だけじゃんって。
会話の中で、どんなに自信のなさが垣間見えたって、それをどうしろっての。「自信を持って!」とか「自己肯定感を高めよう」とか、「わかった?じゃあはい、それやって。」と言われて、言われた通りにできるわけないでしょう。もしできるなら、最初からソレ言われる人間になってないよ。
フォローしようの無いクズってる部分がさ、ひっくり返って私を励ます、なんてことはないの。自信のなさの自覚はあって、それを他人に押し付けるでも、自分で背負い込むでもない、ただそこにあるだけ。ただ、そうやって社会生活することに、申し訳なさはあるかな。私が一方的に信用してるだけの人だとしても、みっともなくて、情けなくて、恥ずかしい思いをさせるでしょう。家族に、友達の友達に、紹介するのを躊躇うくらい、の。
自分を節目節目に、整えられずに、仕上げきれずに来ちゃったんだよな、今まで。毎日、年々、その時の自分の最大限を完成形とすることなく、納得せずに時を経てきた。(前も書いた話だけれども)達成感は一度もなく、あったのだとしても忘れてしまっている。いろんなものを出し惜しみしてきたんだね。努力も気力も体力もお金も勇気も無理も。
何度となく口にしてきたダメっぷりも、決して自虐なんかじゃない。ただの生意気だよ。「そんなに思うならやれよ、やってみろよ」と言われても、全然響かないのはどういうわけか、自分でもさっぱり、わからない。こんなに不出来アピールをしても、誰も愉快にならないし、私自身も。それでも動かない、動けない。本当は人に好かれたい、せめて見られて恥ずかしくない人間になりたい、とコンスタントに誓いすぎて信憑性がない。「なりたい」と呟いたあと、何ひとつ努力しない、変わらないのは、よほど意志が弱いのか、本気でそう思っているわけじゃないからなのか。私に甘い人たちが、そのまんまでいいよ、と言ってくれるから...とか、実はそんなに他人は重要じゃない、やっぱり。他人と比べないのはいいとして、いつまでも「私が...私の...」じゃ、さすがにぐったり来ますよね、うん。