こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

浮沈

何もない私の、過去に嬉しかった話。今こんなに自己肯定感が低くても、あの頃は確かに瞬間誇らしかった話。人の呟きを見て、ふと思い出したの。

小学生の頃、年の離れた姉の学校の文化祭で、「誰でも自由にどうぞ」と掲げられたお絵かきコーナーがあって、壁に貼られた大きな紙のど真ん中に、自分の手のひらくらいのお馬さんを描いた。描き終わって、少しモジモジしながら親の元に戻りこっそり振り返ると、その学校か他所の学校かの生徒さん―姉と同学年くらいのお姉さん達が、そのお馬さんを指差して言った。「これかわいいねー」「えっほんとだこれかわいー」その時の嬉しくて少し恥ずかしくて、でも“ありがとう”という気持ち、今でも覚えてるんだ。自分の親や先生や友達に褒められてももちろん嬉しい。照れくさい。でも、名前も知らない二度と会えないかもしれない人に褒められることは、また違った喜びがあった。

過去の一瞬の出来事は、今の私に何も影響してないのかもしれない。なんの実にもならない話。私以外その事を覚えている人はきっといない。でも、きっとこれは“宝物”だと思う。今になって、そう思う。それによってなにか成果があるとか、実益があったわけじゃなくても、意味なんかなくても、あの時、他人に褒められるということに、私は大層喜んでいたんだ、心の中で。そんな風に素直に、そして密やかに、心躍る瞬間を知っていたんだな“あの子”は。“ありがとう”って気持ちは、まだはっきりここにある。何年経っても覚えている私が今ここにいる。

何もない私の、最近哀しかった話。基本的に何事にも自信はないのに、染み付いた習慣や癖までも、真実かどうかまで疑いたくなる話。

少し的を絞った話になるが、なにぶん私が感じたそのまんまの出来事なので、特に解説なく残しておく。音楽的な話だ。もンのすごく久しぶりにピアノに触り、坂本氏の「energy flow」を弾いてみようとして気付いた。私は何故か冒頭を「ミーミードシレラー」という音名で覚えており、歌いながら弾いてみた。ら、見事に違った。叩いた鍵盤は正しい。改めて楽譜を見ると音名も正しい。しかし、ピアノが発する音程と私の歌う音程は違う。え????

実は、私の歌った「ミーミードシレラー」は言葉こそそれだが、音程は「レーレーシラドソー」と発していたということだ。ナントイウコトデショウ。違和感。それしかない。そしてはたと気がついた。幼い頃にピアノに触れ、合唱団にも入り、“正しさ”はそばにあったはずなのに、長らく無意識に基準にしていた映画「サウンドオブミュージック」のドレミの歌。吹奏楽をしていて、B♭やAに揺さぶられつつ、お遊戯から始まったドレミの歌はがっつり染み込んでいた。だからこそ、もしや私の“ド”間違ってる?と思って、ドレミの歌について調べた。

すると、原曲は変ロ長調とあった。マジか。こんだけたくさん歌ってきて、ずっと知らなかった。ドレミの歌は音楽って楽しいなって思った入口に過ぎない。年を重ねて、触れるジャンルも曲数も増えて、声でも楽器でも、音階や音程を学んで、その中で正確さを求めることもあった。できる限りではあるが、多少は自分に“音感”を感じていた。そして当初はそれも、それほど大きくは間違っていなかったはずだ。だが時は経ち、己の音感しか頼れない場面で、私の基準とばかりにあの歌を思い出して、委ねた。小学生の頃は熱心に歌っていたが、大人になってからはそう何度も歌ってないもう“曖昧な歌”を。「だってドレミって歌ってるじゃないの!」と言わんばかりに。(変ロ長調なのだから、ピアノでいうシ♭の鍵盤を“ド”としたドレミファソラシド...つまりあれはシドレの歌ということになる。)相対音感にしたって、回答がズレる、つまり不正解の音感になってしまった。

気づいたとき、思った以上にショックで、哀しかった。姉が「あれは変ロ長調においてのドなんだから間違ってないんだよ(あんたの言ってることも)」とフォローしてくれたけどそういうことじゃない。クラリネットでしっかり慣らされたド(B♭)、ピアノでは...と何度も繰り返してきたはずなのに、記憶のドがB♭じゃ間違いなくドレミの歌の影響じゃん。私はピアノのドを弾きながらCが歌いたかったんだよ...。

あれから時々、YouTubeで調べたり、家のピアノで確かめながら、音感を整えようとしている。これは訓練だなもう。元がちゃんとしてたかももはや怪しいけれど(過去の自分に信頼ないので)、鍛え直すしかない。音楽のプロではないし、突き詰めてセンス、と言われてしまったらどうしようもないけれど、音楽が好きだからこそ、正確さが欲しいな、と思うのだ。

  

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