こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

D.S.P.

(偏ってはいるが)刺激に弱いというと、最近では繊細さんというらしい。自分を繊細だと思ったことはないが、今まであった別の言葉の言い替えかもしれない。生きづらさやピュア、真面目、デリケート、どれも完全にしっくり来るものはないけれど。人の言葉や声色、態度や仕草もそうだが、音や光、温度などの刺激を受けることによるストレスが、様々且つ偏っている。ただ、騒音や怒っている人が私は限りなく苦手だけども、そういう人は世の中にたくさんいるはずだから、それが繊細ということかというと、違うように思う。

自分自身は恵まれて、平穏無事に暮らしていて、命の危機なく、生き続けている。そうやって本来、心健やかでいられる条件が整っているはずなのに、画面の向こうの世界に触れて、どうもいつも落ち着かない気持ちでいる。メディアを通して知る災害や戦争のニュースに、事故や事件、トラブルの話題に、本当に胸が痛くなる。インターネット上の醜い罵り合いや暴言や嫌味、そこかしこに溢れていて狼狽する。私は無関係なのだからと、必要以上に感情移入する必要はないと、言われるけれど“適度な”“必要数”を把握すること自体が難しい。心が動く時は一瞬だから。すぐ泣く。予告の無い現実に、あっさり振り回される。かといって、ドラマや映画に思ったより入り込めなくなったなと感じる自分もいる。没入感に恐怖心すらあって、勝手に歯止めがかかっているのかもしれない。私のアンテナも受信機も、調節するのは私しかいないのだから、うまくやりたい。けど、うまくできないね。心がぶん回されてヘロヘロになるなら、見ないのが一番、というのを、よく知っていてその度に苦笑いだ。

敏感であることは、時に得だし時に損だ。敏感肌は本当に困っているし、空気が読めないのに「空気読めよ...」の無言の圧だけは敏感に感じ取ってしまってどうしようもなくさせる自分自身にも。敏感が故に反応が早い人は羨ましいなぁと感じることもある。言葉のやりとり、フットワークにも、反射神経すごいなぁって。感受性の豊かさと些細なことも感じ取れる敏感さ、それぞれが“いいこと”として両立できたら素晴らしいんだろうけど、それが才ならば磨かなければならないし、天性なら人間自分の手ではどうすることもできないもの、かもね。自分が“いいレベル”って感じる日は来ない気がする。いつも行き過ぎか足りないか。

上述のような話は、もう何度も人に話していて、自分はこういう現状で、ではどういう人間か、みたいな、結局自問自答みたいなことになるんだけども。ある時、私はその歳にしては純粋すぎると言われた。でも、純真無垢とは違うから、いつも何かの狭間で苦しいのだと。なんでも信じるピュア、なんにも(自身も含めて)信じないピュア、何にせよ、その言葉ヅラのような綺麗さはなくて、ただ半透明にやり過ごしているだけだと、自分では思う。それが例え透明っぽく見えているとしても、捩れて歪んでいるの。

とてもとても、内向きに生きているのに、こんなに外界の影響を受けやすいのはどういうことだろう。最近は蛍光灯の光が眩しくて料理のときが一番つらい、音楽が好きなのに一曲の中に音の種類が沢山あると感動する一方で草臥れる。視界的にも刺激を減らしたくて部屋の中を断捨離しているけど、理想到達はまだまだ先になりそう。全てを遮断したら、なんて、できないことは言うもんじゃない。

 

 

繊細 delicate sensitive pureAmazonで検索