しごとごとし
初めて働いてお給料を貰った時から、ずっとわからない、“仕事”との距離感。お金のため、と熱中することも、やりがいのため、全力尽くすこともできない。若いから理想があり、若いから夢がなかった、常にぼんやりとしていたから。端的に、好きなことを仕事にしたかった。私にとって“好きな仕事”になってほしかった。でも好きなことはいつだって、どれだって、限定的 だった。期間限定、範囲限定、薄々気づいていたそれらをいよいよ実証されたとき、諦めるようになった。好きなことは仕事にはならないんだ、好きなことを嫌いにはならないけれど、それを仕事にして生きていくのは限定された世界でだけで、変化を続ける私には居続けられない世界なんだ、と。
それでも働かねばならぬ と、まだ、思っていて。ならば、好きなことを仕事にという視点は捨てて、今している仕事を好きになろう、好きな仕事になるように努めようと思った。継続や慣れからでも、愛情が持てるかもとも思った。でも、そんな風には、結局いつまでも、できなくて。そもそも継続が難しい分野であるのに、その先を期待しても、そりゃあ無理だよな。
全ては過ぎ行く出来事。仕事も趣味も、好きなことも嫌いなことも、過ぎてしまえば、私自身が眠ってしまえば、あってもなくても同じこと。突き詰め過ぎた真夜中に、そう思ってしまって、最終的に、何が好きなのか、私はどうしたいのか、それすらわからなくなってしまった。
今はそれに近い状況・心情のような気もする。なんでも自由にしなさいと言われて、なんでも好きなことをすると告げたけど、好きなことをして自由にして、だからなんなんだろう。それで何が残るんだろう。それでその先はどうなるんだろう。私の好きという感情に、またそこから来る行動に、何の意味があるんだろう。世界に何ももたらさないとして、無駄にエネルギーを消費しているだけなのか。
やる気のない人間に、「やる気を出せ!」と言う以外で、やる気を出させる方法はないものか。ご存知なら是非このやる気のない人間にお試しいただきたい。片寄ってはいるがそれなりのサンプルだと思うので。
子供の頃の将来の夢を今になっても褒められるし惜しまれるのは、それが高尚で優秀者の言いそうなソレ、に見えていたからだと思う。実際それに見合った実力はないし、優秀そうに見えるのと優秀であるのは全く別ものだし、何より私自身が、それを夢と据えると人に喜ばれ一時の自己承認欲求が満たされるというハッタリ満足みたいなものを感じていたのだろう。高みを目指す志は美しくても、実体がないのに望むだけで称えられるのは、今考えてもおかしいと思うのだが。あの夢は本気だったかと問われれば、ゼロではないが、何が何でもという必死さはなかったように思う。「偉いねぇ」「凄いねぇ」「応援してるよ」と言われ掲げた“将来の夢”より、私のやってみたいことはもっとちっぽけな存在ながら、恐らく、ほぼ別の方向にあった。
きっと今もそんな感じの“描き方”“抱き方”のまま、大人になった。否、もはや大きな目標どころか、日々の小さな目標でさえも、意識することなく日が終わるのだ。今になってなくなったとか、見失ったとかではなく、ずっと、最初からなかったのだ、そんなものは。子供の頃は、大人になるまで―なってからもずっと―優秀のフリかわいいフリも続ければ本物になると、きっと信じていたんだろうね。思ってたより早々に脱落するけどね。それでも、信じる気力があったんだなぁ。