なかよしコミュニケート
日々、コミュニケーションは難しくなる。限られた人としか接してないし、他人と関わることは現在ほぼ無い。私はお喋り好きだと思っていたが、会話がしたいのでは無いのかもしれない。ただ、発声できてれば良いのかも。だからヒトカラが一番満足を得られる手段なのかもね。それすら行ってないのだから、近頃はフラストレーションも多少あるのかしら。
最近、かけられて不機嫌になる言葉は、「どうするの?」「何かないの?」「偉いねぇ」だ。どれも明確な返答・的確な応答ができないから。“有る・無い”の問いには大抵が“無い”だ。行動指針が決まっていたなら、導くのも見守るのもどんなにか気が楽でしょう。求める“何か”がわかっていたなら、それこそここにこうして居ないでしょう。なぁんにも偉くないのに、ポイントを定めて褒めることができない人は相対的にも絶対的にも“見えていない”と疑ってしまう。残念ながら、無いよ。
問われる前に、自分から“無い”を明かしてしまうことも多い。あまりにもやりとり自体に不毛さを感じると、それが結論のように、ぶん投げてしまう。それってもう、会話する気がてんで無いとき、のような気もする。実際、キャッチボールなんて求めてねぇよ、みたいな心情のとき、ある。
ここに散々自分語りをしておいてなんだけど、自分の話は独り言で一方通行が気楽かもね。私のしたい会話には、本来自分の話は要らないんだと思う。相手の話、他人の話の方が、盛り上がったりちゃんと話せたりする。自分の話になるとシラケているのを感じることもあるし、相手を困らせたり、そもそも会話の体を為さなかったりするから。それがわかっていても手癖(口癖?)が悪くて、会話上にぺらぺら自分語りを乗せちゃっては後悔する。発語・発声すれば満足で、その瞬間、会話であることを忘れてしまっているんだろうな。
親や先生は、長年私のことをコミュニケーション上手と思ってきたのだろう。そう評されてきたし、私自身そう思っている時もあった。でも実際は、下手くそだ。人あたりがいいとも思わないし、人の話を聴くのも実に不得手。接客業向いてるって言われたのも、決められたことをその通りやる、という私をやる、を実行していただけ。会話がうまくいっていればいっているほど、相手が“その人だ”という認識が薄れるし、私自身も「“会話をうまくやれている私”がちゃんとやれてんな」と、少し他人事のように思えてくるのだ。コミュニケーションに容量が限られていて、会話の限度を超えたら、もうそれ以上は欲してませんみたいな顔して...やっぱり本来はあくまで独り語りがメイン、会話はその次って感じ。ほら、上手とはどう見ても言えないと思うのだけど。
仲良くしたい人と、ちゃんと会話できなけりゃ、仲良くはできないと思うんだ。一緒にいて落ち着く、見ているだけで満足とかだったら、無理して会話しなくてもいいんだろうけど。仲良く、には多少活動性が含まれている気がして、私はいつもたじろぐ。能動的ではない私が、ちゃんと会話して仲良くするのは難易度高い。これから先、コミュニケーションを全て失うことは考えにくいが、独り語りだけでは、社会における居場所も心許ない。
相手がそこにいること、私がここにいること、を認めることと、それらを繋ぐことは、私にとってまるっきり別物だ。