WANTEDしがいがない
やりたいことが全く無いわけでもないが、どうしてもそれをやりたい、やり遂げたいという意志があるわけでもない。最も必要なのはやる気だ。なんとなく、が形になるのはラッキーみたいなもので、自分がそういうラッキーが手に入る人間やってるとは、どうにも思えない。運も徳も無い。だからいつも悲観的だ。
まだ若いという理由で叱咤激励する人は、何をさせようと思っているのだろう。何ができると思っている?“何でも”と言われてそれがeverythingじゃないことを私は知っている。もう若くないんだからと発破かけてくる人は、どこ向いて欲しいんだろう。ファンタジーより現実、冒険より安定ということだろうか。いい歳なんだから、というのは“いい歳のあるべき姿”があるということだろう。夢見たっていいけれど、無謀なのはやめてよ?と、下手にでるようなフリの圧力で。
“生きていかねば”は“生きていきたい”の意志の上に成り立つ。“やりたい”は始まりの一音目だ。その前は無、もしくは0音目にブレスがあっても、延々と吸い続けることはできない。吐かなければ、始まらない。そうやって、例え嫌々の選択や呼吸を繰り返しても、生が必要だと思えることは羨ましい。辛くても生きたいと思う人の反対は、辛くなくても生きたくない?辛くなれば、生きたいと思うようになるのかしら。
自分探しは叶わない。自分は最初からいつまでもここにいるから。本当の自分なんて証明できない。この信じたくもない自分がどうしようもなく本物だから。全うすることは、やる気があろうがなかろうが時間が決める。
愛のあることばだって、わかってはいるけど、賛同はするけど、難しく考えすぎっていわれるけど、よくわからないまま。人生、自分を喜ばせて生きようって聞いて、一瞬ときめいて、ころんと落下した。自分が何で喜ぶのか、どうやったら喜ばせられるのか、もうわからない。したいことをさせたいように、自分にさせたら、ただのワガママって咎められて、更には修正かけられるだけじゃない?他人はそんなにこちらに興味ないっていうけど、それでも気弱な自分は、怒られ慣れてなくて無難を探す。無難の中に、真実は在る かどうかも知らないで。
時々だけど、いつまでたっても何も“クリア”にならずに、歳だけ取っていく自分に辟易する。“いてもいなくても同じ”と“いるのかいないのかもわからない”は似ているようで違う。それらは同時に在り得るし、人に対して感じるよりも、断然自分に対して感じることのほうが多い。そのまま、のつもりでももう二度と同じ空気は吸えないというのに、変わらないと言ってみたり。始まりから今まで続いてきた一本線、どこを切っても自分であるはずなのに、断面図に私はいないように感じたり。死ぬまでこんな感じなのか、と思う。そりゃあため息も出るでしょう?
「みんなそうだよ」と言われると、「ふーん。で、私はどうなんの?」と切り返したくて。みんなのことなんか知ったこっちゃないし、昔の自分でさえどうでもいい。仮にみんなそう だとして、私もそこに含まれているとして、だから?“そーんな私はどうなんの?”誰宛でもない質問が浮いて浮いて、皆目を逸らし口を閉じ だから、私もついつい真似してしまうだけ。