キョリカン
自分のこと、が気になるのはもちろんなんだけど、ひとのことなんてどうでもいい、と口にしている割には、他人の言動にあれこれ感情が動く。イラっとしたり、おえっとなったり。顔も見えない匿名の世間では、「え、コレ人間!?」と「人間だもの~」が同一だったり共存したりしている。
Twitterとか、ニュース記事のコメント欄とか、時々「Oh...」となる場面に出くわす。リアルの人間関係の中にも時々ある。決して私の“遭遇率”が高いわけじゃないと思うけど、気にしなきゃいいと言われることも気になってしまう。無意識オートマチックは素の自分じゃどうしようもない、努力の領域。
人の考え方感じ方に、いちいち突っ掛ったり粘着している人が苦手。対象の数年間を遡ってみて、発言の過去と現在を比較して指摘したり。それら含めて丸ごと愛してるって話なら微笑ましいけど、矛盾を暴いたり蔑んだり、自分で掘っといて勝手に怖がったりしてるのは、なんだかなぁ。全てに順応しろとか、違和感を黙って受け入れろとか、私自身もできないから言わないけれど、人間は変化するって認識は持てないのかなって思った。自身も他人もね。考え方や感じ方が、時を経て変わったっていいじゃん。もちろん変わらなくたって間違いじゃない。過去と現在と未来をごちゃまぜにして広げて、ほら、一貫性が無いだの、支離滅裂だの、対象の扱い方が謎すぎる。
人一人の矛盾や経年や変遷に対して、正義と名付けた攻撃性を見せつけてくる人たち。こっそりやるつもりはまるでないの。正答率の高さをアピールしてるみたいなものだから。例えば“社会”を考えるとき、“防犯・未犯”は大切なテーマだと思うけれども、“予備軍”を勝手に位置づけて、糾弾していくポリスもどきみたいな人たちは、自身がその予備軍になりえる(または既に)という感覚は、果たしてあるのかしら。当事者ではない自分たち=加害者でも被害者でもない=正義・ルールな自分たち、みたいな感覚の人って...。
人間としての一部分、全てのものに通じる多面性のうちのほんの一面、みんな同じであることに安心したり傷ついたり。本質は相対性で顕すものじゃない、と思っていても自己とそれ以外を並べたり比べたりしてしまう。攻撃性も防衛反応であったりして、自分の中にも外にも、“複数”であることを持て余している。
人に興味があるから、口出したくなる、とてもわかるんだ。でも人の人生に干渉するにもやり方があると思う。一貫性を褒める人もいれば、変化がないとがっかりする人もいる。矛盾や転換を移り気や軽いと嫌がる人もいれば、臨機応変だと歓迎する人もいる。自分自身で迷ったり悩んだりするならまだしも、他人から間違い探しのフィールド扱いされるのは、違うと思うな。そういう風に他人の人生に、視界に、入ろうとしてる人、本当に苦手。
匿名で、わりと自由に発言できるようになって、手に取れない見えないものでも近くに感じることができて、言葉のみの人間観察もできるようになった。だから、距離感は永遠のテーマだなと思う。「アンタ、アノコノナンナノサ...」って唱えながら、これからも人を(自分も含め)眺めていこうかと。