こんらん

脳内漏洩。怪我しないでね。(現在9月の記事、遡って更新中。)

俺のものは誰のもの

前回に引き続き、人間観察の報告的な(?)。

即反応は羨ましかったりそうでなかったりする。素晴らしい作品を目の前に、どうして素直に褒めたり称えたりすることができないのだろう。あれに似てるこれに似てるパクリだとか二番煎じだとか。その評価自体を否定はしないが、それが掛けられて心地いい言葉たちかどうかは、受ける相手によると思うのだけれど。(もちろん、尊敬しているものに似ていると言われて嬉しいって感情は理解しているよ。)オリジナリティに嫉妬なのか、皮肉なのか、嫌みなのか、悪意をもってちゃんと批判なのか、はたまた何の感情も込めない感想、なのか。作品やその人自身について、物申すことを、“批評や意見はすべて有難がられるもの、正義、限りなく自由”と信じて疑わない人がいる。そこには本来とるべきコミュニケーションはない。

真似に見えても、実際模造品だとしても、その技術と心意気と真相はきちんと本人から汲むべきだと思う。その価値や方向性をはかるのは、原作者(実際は“居ない”かもしれない)とされた人やそれらに権利を持つ人などの限られた人たちであって、外野の他人の、ただの一面しか知らない“今見ただけの人”じゃない。製作者の努力の過程、かけた時間、それらを貶すことは、“糾弾する権利”を手にした上でできることかと。私はほぼ消費者側だから、生産者側の本当のところはわからない。でも、相手も人間なんだよ、と、私たちが作品を“見て”心動くことがあるように、製作者も“作る”とき心が動いている、と思う。その関係のなかで言葉を発するときは、見る側の誠意って要ると思うんだ。

作品についての質問で、「あなたはこれの影響を受けているのでは?」と突っ込む意図とはなんだろう。もし自己分析が済んでいる人なら、自ら教えてくれるかもしれないし、あえて黙っているのは秘密にしておきたいポイントだからかもしれない。作品ではなく製作者をもっと掘り下げて知りたいからとか?そういう興味だけならまだしも、「あれによく似ていますね。パクリなのでは?」という言い方をする人はどんな権限があって、製作者を侮辱しているんだろう?

まず疑うことで守れるものがあることはわかっている。でも、疑問や違和感を、攻撃性を絡めて相手に投げるのはどうなんだろう。感動や衝撃をすっ飛ばして、粗探しをしているような。やっている方は次々とクリアにしていくのが気持ちいいかもしれない。追及される方も糧とできる出来事になるかもしれない。でもその様を見ている私としては、なんだか、迷子の気分。その作品に揺さぶられる為の感情は、どこへ行ったんだろう。最初から指摘しかしてなくて、で結局、それが好きなの?嫌いなの?ってね。

片や事実としての、パクリや許可のないトレースや模倣、原作を明かさずに作品は私オリジナルだ、自分が先駆者だと言い張るなりすましや思い込みというものが存在し、それらは咎められて然りだと思う。そこにいくら見る側の誠意があっても、咎人自体が誠意がない故の行動をしているのだから。もちろん勘違いによるミスということもあるだろう。でも、意図して行う確信犯もちらほらいる。明らかな泥棒さんたちが取り締まれないほど沸き上がり、多くの“オリジナル”が傷ついていることは胸が痛い。また、たまたま似てしまった、無意識に影響を受けてしまっているものが、見られるタイミングによってやり玉に挙げられ、必要以上に反省を促されているのも心苦しい。罪の芽を摘み取っているつもりで、才能の芽を摘み取っている。多くの泥棒さんは無傷で逃亡できているのに、理不尽だなぁ。

私は何も生み出せないけれど、それが悔しくて誰かに成り代わろう、とは思わない。真似やお手本を使った練習は元があるからできるし、尊ぶ気持ちがあるから元にしている。誰かの成果を丸パクリなんて、誰かの人生の横取りなんて、そんな厚顔無恥なこと、小心者の私にはできない。そして、やっぱり本心ではその憧れたちと同様に、オリジナルとして認められたい気持ちがあるんだと思う。誰かの皮を被って愛されても、「やっぱり愛されるのは誰かの皮だなぁ」と改めて思うだけで、自己否定に拍車がかかるのでは?と思うよ。

 

 

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